文書番号:
- カンボジア :HRI/CORE/1/Add.94
- インドネシア :HRI/CORE/IDN/2010
- ラオス(最新版):HRI/CORE/LAO/2017
- マレーシア :HRI/CORE/MYS/2016
- フィリピン :HRI/CORE/1/Add.37
- タイ(最新版) :HRI/CORE/THA/2012
- 東ティモール :HRI/CORE/TLS/2007
ノート:
- (「観測対象」以外の)「締約国の報告書の一部を構成する共通コアドキュメント」より。この文書については下記参照。ブルネイ、インド、ミャンマー、パプアニューギニア、シンガポール、ベトナムは文書未掲載。掲載各国においても第二次大戦への言及は余り無い。フィリピンでは意外な記述を発見。
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インドネシア(2012年)
「歴史的背景」の項で、紀元前3世紀から説き起こし、オランダによる支配、日本による占領に言及。現在「世界で三番目に大きい民主制(world’s third largest democracy)」というのは海域を含めたとしても面積で三位ということはないだろう。で、続けて(「民主制」と付かない)「人口」で四位であると。中国をディスってるというのはうがち過ぎか(笑)。 -
ラオス(2017年)
同内容の2011年版(HRI/CORE/LAO/2011)では「国と住民」項に含まれていたが独立させ、それぞれパラグラフ一つづつの「地理と歴史」項を設けて簡潔に記述。「ほぼ一世紀半のあいだ外国勢力の属領や植民地」とし、個々の「外国勢力」には言及せず。続いて「第二次世界大戦後」となり、1945年4月の独立宣言にも触れていない、というか1953年のフランスからの完全独立も1975年の社会主義政権成立の前段として触れられる程度。そのあともラオス人民革命党のアジ演説。 -
フィリピン(1994年)
二十年以上改訂していない。歴史に関する記述は無いのだが、1章「国土と人々」の中での人種と文化に関する短いパラグラフでの(日本への)言及には思わず目を疑わされた。そうなの? *1 。(あまり関係ないが)第二次大戦中の日本軍によるビラ(?)-(蔵)ニミッツ図書館、説明:「フィリピン諸島に迫る二門の日本海軍の大砲をあらわす」*2 、ウィリアム・ジョセフ・シーボルド(William Joseph Sebald)文書より。同文書説明:「パールハーバーへの攻撃直後、日本帝国の軍事指導者たちはフィリピンに狙いを定めた。[…]。アメリカ人を対象としたプロパガンダではフィリピンの孤立状況に焦点を当て降伏を促したが、フィリピン人を対象としたプロパガンダでは、帝国主義者君主としてフランクリン・ルーズベルトを描写、フィリピン人に家庭や職場に戻るよう促し、日本の保護のもとでの「フィリピン人のための楽園」の建設を褒めたたえた」*3 。 -
タイ(2012年)
「歴史」項を設け、タイの起源と現在までの王朝の変遷をそれぞれパラグラフ一つづつで記述(1996年版 HRI/CORE/1/Add.78 には記述無し)。ビルマのコンバウン王朝によるアユタヤ王朝の滅亡およびアユタヤの街の破壊(1767年)に言及。第二次大戦についての記述は無い。 - 東ティモール(2007年)
独立後五年後の文書。「この新しい独立国に直面する大きな課題を、この国家の過去のニュアンスを考慮することなく理解することは困難」ということで、1章に「政治史」と題する項目を設け、かなり詳細に記述している。同項より「インドネシアの侵略とそれに続く占領」までと「政治的変化」を抽出した。ポルトガル商人の到来から記述を始めポルトガルによる植民地支配を説明しているが、「直面する大きな課題」を「理解する」のに重要ではないということだろう、第二次大戦やその際の連合軍(オランダとオーストラリア)とそれに続く日本による占領などへの言及は無い。その後のインドネシアによる占領を詳述し、虐殺事件や「性的奴隷制」なども書き連ねられる。インドネシア的には別の見方もあるのだろうが(1961年には西ニューギニアも占領している)、我々よく知らない者的にはそうなのかーといったところ。北朝鮮や韓国による歴史記述も一般にはそんな受け止めなのだろう。
なお、2章「人権の保護と推進のための一般的法的枠組み」に、日本政府とジャイカ(JICA)による支援への言及があった(パラグラフ189および289、未抽出)。
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国連人権高等弁務官事務所ホームページ(英語)
"ALL HUMAN RIGHTS BODIES" ("HUMAN RIGHTS BODIES") > "Common core documents" ("Treaty bodies")
「コアドキュメント」(英語)
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外務省ホームページ
「外交政策」 > 「日本の安全保障と国際社会の平和と安定」 > 「人権・人道・難民」 > 「人権外交」
「主要人権条約」
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関連エントリ
掲載URL:
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カンボジア(G9817938.pdf)
https://docstore.ohchr.org/SelfServices/FilesHandler.ashx?enc=FhOD6sgqgzAhFXD9F%2feKaFMm83LbFY75RhkIFGrig%2b5AFV4LqsmpUoOp27H2lH7UX24LqGv0HMf3vz9U%2f%2btvRCpPzOQ0KmEmuHxUGssnTQP175rrjl4LYZXIfCAE%2f%2bjM -
インドネシア(G1246703.pdf)
https://docstore.ohchr.org/SelfServices/FilesHandler.ashx?enc=FhOD6sgqgzAhFXD9F%2feKaFMm83LbFY75RhkIFGrig%2b55iWXA3Q3mXy2ndOR9bj%2f49IQ8NCL%2fpVBkMRewK8QgpUuRsX6JXhnIIxYfSjl1jDbgnpAKU2aULO%2b6mMQ%2f9ukO -
ラオス(G1710782.pdf)
https://docstore.ohchr.org/SelfServices/FilesHandler.ashx?enc=FhOD6sgqgzAhFXD9F%2feKaFMm83LbFY75RhkIFGrig%2b4Wa7%2fiSa9gkhXJka4WM0IPaH0A3sQ5vrODhy64bCZ4IraeUKN%2bDLBHThWKnFi3LPaQS%2b4dkCm7aEQSGhtn4sxs -
東ティモール(G0743119.pdf)
https://docstore.ohchr.org/SelfServices/FilesHandler.ashx?enc=FhOD6sgqgzAhFXD9F%2feKaFMm83LbFY75RhkIFGrig%2b5sg5Ns3Wkz6Rgl9g1OcMcVxPIIfFR2%2fqMYBrESdJrScRBevMTsCwemKBl3cJAHY7BzY7E7m6MVYSR3%2bQNcTLTv
Common core document forming part of the reports of
States parties
締約国の報告書の一部を構成する共通コアドキュメント
[カンボジア HRI/CORE/1/Add.107(1998年9月16日)]
[18 December 1997]
[1997年12月18日]
[…]
III. GENERAL POLITICAL STRUCTURE
III. 一般政治機構
Historical background
歴史的背景
Cambodia met with disaster due to protracted war lasting over two decades, marked principally by the genocide committed by the Khmers Rouges.
カンボジアは、クメール・ルージュによって犯された大虐殺によって主として跡付けられる、20年以上にわたる長引く戦争による災害に見舞われた。
13. As a result of the Paris Agreement of 23 October 1991 between the four Cambodian parties, the Supreme National Council was set up with the task of achieving national reunification and reconciliation. The United Nations Transitional Authority in Cambodia (UNTAC) was charged with monitoring compliance with the Agreement and organizing elections in 1993.
13. 1991年10月23日のパリ合意の結果、カンボジアの四派のあいだで、国家再統一と和解達成を目的に最高国民評議会が設立された。カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が同協定の遵守監視と1993年の選挙開催を担当した。
14. Following the elections, a constituent assembly was convened to draw up the final draft of the Constitution, after which the Government took office headed by the two prime ministers.
14. 選挙の後、憲法の最終草案を作成するために制憲議会が招集され、その後、二人の首相により率いられる政府が政権を握った。
[…]
[インドネシア HRI/CORE/1/Add.72(2012年10月18日)]
[15 October 2010]
[2010年10月15日]
[…]
I. General information about the Republic of Indonesia
I. インドネシア共和国についての一般情報
A. Geographical, historical, demographic, social, economic and cultural characteristics
A. 地理的、歴史的、人口統計的、社会的、経済的および文化的特徴
[…]
2. Historical background
2. 歴史的背景
2.Indonesia’s strategic geographical position has had a great influence on the country’s culture, society, politics, and economy. The country has been a melting pot of the world’s civilizations and religions for centuries. In the 3rd century BC, Hinduism and Buddhism started to spread, followed by Islam in the 11th Century with the arrival of Indian and Arab Muslim traders. By the 1400’s Indonesia was at the center of a great international trading network connecting India and the Middle East to China. European traders, keen to gain control of the lucrative spice trade, started to arrive in Indonesia from the 1400’s onwards. Indonesia was under Dutchcontrol from the beginning of the seventeenth century to World War II, when Japan occupiedthe country between 1942 and 1945.
2. インドネシアの戦略的地理的位置は、この国の文化、社会、政治、経済に対して大きな影響を与えてきた。この国は何世紀にもわたり世界の文明や宗教が溶け込んできた。紀元前3世紀にはヒンドゥー教と仏教が広がり始め、11世紀にはインドとアラブのムスリム商人が訪れ、イスラム教が続いた。 1400年代までに、インドネシアはインドと中東を中国につなぐ大きな国際貿易ネットワークの中心にあった。儲かる香辛料取引の支配権を握ることに熱中したヨーロッパのトレーダーたちが、1400年以降インドネシアに到着し始めた。インドネシアは、17世紀初頭から、1942年から1945年のあいだ日本が国を占領した第二次世界大戦までオランダの支配下にあった。
3. Nationalism and a desire for independence began with the onset of the 20th Century. The first Indonesian nationalist organization, Budi Utomo was formed in 1908, followed by the Youth Congress in 1928. On 28th October 1928, Indonesian nationalists declared a Youth Pledge “Sumpah Pemuda”, which proclaimed three ideals: one nation, one motherland and one language: Indonesia. Following the declaration of independence on 17 August 1945, Indonesia became a member of the United Nations on 27 September 1950.
3. ナショナリズムと独立の欲求は、20世紀の始まりとともに始まった。最初のインドネシアの民族主義組織、ブディ・ウトモが1908年に結成され、1928年に青年会議が続いた。1928年10月28日に、インドネシアのナショナリストは、一民族、一祖国、そして一言語のインドネシアの三つの理想を宣言した青年の誓い「スンパ・プムダ」を宣言した。1945年8月17日の独立宣言に続いて、インドネシアは1950年9月27日に国連加盟国になった。
4. Achmad Sukarno was a key figure of the nationalist movement and became the first President of Indonesia (1949- 1967). In 1967, General Mohammed Suharto became the second President of Indonesia and held office for 32 years until his resignation in 1998. In the post-98 era, Indonesia has experienced significant reform with democracy and the promotion and protection of human rights becoming key priorities within the development and state-building processes.
4. アフマド・スカルノは民族主義運動の重要人物であり、インドネシアの最初の大統領(1949年 - 1967年)となった。モハメド・スハルト将軍は、1967年にインドネシア第二代大統領になり、1998年の辞職まで32年間務めた。98年以降、インドネシアは、民主主義および人権の促進と保護が開発と国家建設のプロセスの中での主要な優先事項となる大幅な改革を経験した。
5.Having made steady progress in human rights and democratic reforms – including free, transparent, and fair elections – Indonesia is often now considered to be the world’s third largest democracy. With a population of around 237.6 million people, Indonesia is theworld's fourthlargest populated nation. With approximately 86% of the population expressing adherence to Islam, Indonesia is also home to the world’slargest Muslim population. Other religions including Christianity and Hinduism are also practiced freely in Indonesia. The Indonesian state ideology, “Pancasila” promotes and protectsthe diversity and multicultural nature of the country.
5. 人権と民主的改革――自由で透明かつ公正な選挙を含む――が着実に進展しているインドネシアは、現在では通常、世界で三番目に大きい民主主義国と見なされている。人口は約2億3,760万人で、インドネシアは世界で四番目に人口が多い国である。人口のおおよそ86%がイスラム教への信仰を表明していることから、インドネシアには世界最大のイスラム教徒の故国でもある。キリスト教やヒンズー教などの他の宗教もインドネシアで自由に信仰されている。インドネシアの国家イデオロギー「パンカシラ」は、この国の多様性と多文化性を促進し保護している。
[…]
[ラオス HRI/CORE/LAO/2017(2017年4月28日)]
[Date received: 4 April 2017]
[受領日:2017年4月4日]
[…]
I.General information of the Lao People’s Democratic Republic
I. ラオス人民民主共和国の一般情報
A.Geographic, economic, social and cultural characteristics of the State
A. 国家の地理的、経済的、社会的、文化的特徴
Geography and History
地理と歴史
[…]
2.History: Laos is an ancient nation in the region and the world. The Lao people have lived and gone through stages of existence, evolution and development on this beloved land for a long time. In the middle of the 14th century, King Fa Ngum united Lao townships and founded the Lane Xang Kingdom, which in the subsequent times was built into a prosperous nation though the country was invaded by foreign aggressors at different times in history. Laos was a vassal territory and colony of foreign powers for almost a century and a half. In the 20th century, particularly after the World War II, the Lao People’s Revolutionary Party led the multi-ethnic Lao people in a heroic revolutionary struggle for the liberty of the country. After a long struggle with full of hardships and sacrifices, the Lao people gained national independence and established the Lao People’s Democratic Republic, which is an independent and sovereign State on 2nd December 1975. The Lao people have become the masters of the country.
2. 歴史:ラオスは、地域と世界における古来の国家である。ラオスの人々は長期間この最愛の土地に、存在、進化および発展の段階を経て生きていた。14世紀半ばにファー・グム王がラオスの村を統一し、歴史のその時々において外国の侵略者に侵略されたが、その後の時代に繁栄した国へと築かれたラーンサーン王国を設立した。ラオスはほぼ一世紀半のあいだ外国勢力の属領や植民地だった。20世紀、とくに第二次世界大戦後、ラオス人民革命党は、多民族のラオス人民をこの国の自由のための勇敢な革命闘争に導いた。苦難と犠牲に満ちた長い闘争の後、ラオス人民は国家の独立を得、1975年12月2日に独立主権国家たるラオス人民民主共和国を設立した。ラオスの人々は国家の主人となった。
[…]
[マレーシア HRI/CORE/MYS/2016(2012年10月18日)]
[15 October 2010]
[2010年10月15日]
[…]
[フィリピン HRI/CORE/1/Add.37(2 February 1994年2月2日)]
[21 September 1993]
[1993年9月21日]
[…]
I. LAND AND PEOPLE
I. 国土と人々
[…]
4. The Filipino is of Malay racial stock. The indigenous culture is a
mixture of Malay, Chinese, Japanese, Arabic, Spanish and American influences.
4. フィリピン人はマレー系の人種である。先住民文化は、マレー、中国、日本、アラブ、スペインおよびアメリカの影響の混合物である。
[…]
[タイ HRI/CORE/THA/2012(2012年10月22日)]
[17 January 2012]
[2012年1月17日]
[…]
I.Introduction
I. 序文
A.Location, geographical conditions and history
A. 位置、地理的条件および歴史
[…]
2.History
2. 歴史
Earlier theory argued that the Thai people migrated from Szechuan, a province in Southern China 4,500 years ago. However, the discovery of archaeological artifacts in Baan Chiang, Udon Thani Province, aged over 3,500 years, gave rise to a new theory that Thai people have inhabited this area since the Bronze Age and scattered across South East Asia, including China. Traditionally, Thai people called their country “Siam”. The name was changed to “Thailand” in 1939. The word “Thai” is commonly thought to derive from the word “Tai”, meaning “freedom” in the Thai language. Thailand, therefore, means “Land of the Free”.
以前の説は、タイの人々は4,500年前に中国南部の省、四川から移住したと主張した。しかしながら、3,500年以上前のドーンターニー県バーンチエンの考古学的遺物の発見は、タイ人が青銅器時代からこの地域に住み、中国を含む東南アジアに散在したという新しい説を浮かび上げた。伝統的に、タイ人は彼らの国を「シャム」と呼んだ。1939年にこの名前は「タイ国(Thailand)」に変更された。「タイ(Thai)」という言葉は、タイ語の「自由」を意味する「タイ(Tai)」という言葉から導き出されたと一般に考えられている。したがって、タイ国は「自由の国」を意味する。
Recorded history of Thailand began with the establishment of city-states during the 13th Century. Sukhothai was established as a sovereign kingdom in 1238. The Ayutthaya Kingdom emerged in 1350 following the decline of Sukhothai and expanded its influence over the Chao Phraya basin. The rise of Ayutthaya coincided with the domination of the northern state of Lanna in Chiang Mai, whose unique cultural heritage retains influence up to the present time. The Ayutthaya Kingdom prospered for 417 years before the city was destroyed by the invading Burmese in 1767. Following the invasion of the Burmese, the capital was moved to Thonburi, and finally to Bangkok in 1782, marking the beginning of the Chakri dynasty. In 1932, the absolute monarchy system of administration was replaced by constitutional monarchy. King Bhumibhol Adulyadej is the present King of Thailand and is the ninth monarch under the Chakri dynasty.
タイの記録された歴史は、13世紀中、都市国家の設立により始まった。スコータイは1238年に独立した王国として設立された。アユタヤ王国はスコータイの衰退の後、1350年に出現し、チャオプラヤ盆地へ影響を拡大した。アユタヤの台頭は、独自の文化遺産が現在まで影響を保つ、チェンマイにおけるラーンナーの北部支配と同期した。アユタヤ王国は、1767年に侵入したビルマ人によってこの都市が破壊されるまで417年間繁栄した。ビルマ人の侵略ののち、首都はトンブリーに移り、最終的にチャクリー王朝の始まりとなる1782年にバンコクに移った。1932年には、政権の絶対君主制は立憲君主制に置き換えられた。プーミポン・アドゥンヤデート国王はタイの現在の国王であり、チャクリー王朝のもとでの第九代の君主である。
[…]
[東ティモール HRI/CORE/TLS/2007(2007年7月16日)]
[16 July 2007]
[2007年7月16日]
[…]
I.GENERAL FACTUAL AND STATISTICALINFORMATION ON TIMOR-LESTE
I. 東ティモールに関する事実と統計情報一般
[…]
B. General constitutional, political and legal structure
B. 憲法、政治および法体系一般
1. Political history
1. 政治史
7.It is difficult to comprehend the vast challenges confronting this newly independent State today without consideration of the nuances of the nation’s past. And indeed, the Constitutional, political and legal structure of Timor-Leste is the culmination of a textured and complex past involving traditional rule overlaid with the influence of centuries of colonization and occupation.
7. こんにち、この新しい独立国に直面する大きな課題を、この国家の過去のニュアンスを考慮することなく理解することは困難である。実際、東ティモールの憲法、政治および法体系は、何世紀もの植民地化と占領の影響を受け継いだ伝統的なルールを含む陰影のある複雑な過去の集成である。
Portuguese colonization
ポルトガルの植民地化
8.Portuguese traders arrived in Timor in 1515, marking the beginning of what was to be more than four centuries of colonization of Timor-Leste. The arrival of the Portuguese in Timor‑Leste was met with strong resistance by the Timorese people with several wars of rebellion erupting in different parts of the territory. Rebel attacks on Portuguese settlements were so persistent that they led Wallace, the English traveller who visited Timor in the mid‑nineteenth century, to conclude that: “Timor will for many years to come remain in its present state of chronic insurrection and misgovernment”. Although sporadic, local in nature, and often triggered by issues that were not of national resonance, these rebellions were the precursors to the national liberation movement of the 1970s.
8. ポルトガル人商人が1515年にティモールに到来し、東ティモールの四世紀以上になる植民地化の始まりを告げる。東ティモールにおけるポルトガル人到来は、その領土のさまざまな地域における数々の反乱の戦いの噴出による、ティモールの人々による強い抵抗にあった。ポルトガル人入植地に対する反乱勢力の攻撃は非常に粘り強く、19世紀半ばティモールを訪問した英国の旅行者ウォレス氏に、「ティモールは慢性的な暴動と悪政の現在の状態に何年もとどまるだろう」と結論づけることを導いた。散発的、本質的にローカルで、しばしば国家的な共鳴ではない問題によって引き起こされたが、これらの反乱は1970年代の民族解放運動の前兆だった。
9.The Portuguese colonial authority responded to local resistance with threats and coercion to maintain its presence in the territory, also exiling resistance leaders. Such strategies, along with various other forms of exploitation, were characteristic of the period. In the 1960s, when many countries began decolonization of their territories, the Portuguese Government maintained a repressive approach to its own colonies, including Timor-Leste. Political activities were banned and critics continued to be exiled to other Portuguese colonies in Africa until the early 1970s.
9. ポルトガル人の植民地当局は、領土内における存在を維持するために地方のレジスタンスに脅迫と抑圧で対応し、レジスタンス指導者の追放も行なった。このような戦略は、さまざまな他の搾取形態とともにこの時期の特徴だった。1960年代において、多くの国々が領土の脱植民地化を開始したとき、ポルトガル政府は東ティモールを含む植民地に抑圧的なアプローチを維持した。政治活動は禁止され、批判者は1970年代初めまでアフリカの他のポルトガル植民地に追放され続けた。
10.Economically, the Portuguese colonization of Timor-Leste has been described as one of neglect and underdevelopment. None of the mineral or fishing resources of the country were exploited, a mark of inefficiency on the part of the Portuguese administration. Every adult Timorese male was, however, required to pay head tax and sucos were required to supply men for manual work. People who failed to pay head tax were often subjected to severe physical punishment and then forced to work for the Government in the Government-owned coffee plantations, among other places.
10. 経済的に、ポルトガル人の東ティモールの植民地化は、無視と低開発の問題の一つとして説明されてきた。この国の鉱物資源や漁業資源のいずれも活用されず、ポルトガルの統治の側での無能の証だった。すべての成人ティモール人男性は、しかしながら、人頭税を払わなければならず、スーコは手作業のために男性の供給が必要だった。人頭税を払えなかった人々は、しばしば厳しい体罰を受け、その後、他の場所の政府所有のコーヒー農園で政府のために働くことを強要された。
Decolonization
脱植民地化
11.In the early 1960s, the Portuguese Government began to expand educational opportunities in Timor-Leste, creating a cadre of native educated elite. These elite Timorese went on to form the nationalist anti-colonial movement in the late 1960s. However, the changes in education policy were not accompanied by political reform in terms of the status of the colonies. It was not until the “Flower Revolution” in Portugal 1974, led by the Movimento das Forças Armadas (Movement of the Armed Forces - MFA) and the overthrow of the Caetano regime on 25 April 1974 that a new political climate emerged.
11. 1960年代初め、ポルトガル政府は、東ティモールにおける教育の機会を拡大し、現地の教育を受けたエリート幹部を育成し始めた。これらのエリート・ティモ―ル人は、1960年代後半に民族主義的反植民地運動の形成に取り掛かった。しかしながら、教育政策の変化は、植民地の地位に関して政治的改革を伴わなかった。 1974年ポルトガルの国軍運動(MFA)に率いられた「カーネーション革命」と、1974年4月25日にカエターノ政権が崩壊して、はじめて新しい政治情勢が出現した。
12.The new regime in Portugal almost immediately renewed the Government’s commitment to General Assembly resolution 1514 (XV) of 14 December 1960 on the granting of independence to colonial countries and peoples, and started the process of decolonization.
12. ポルトガルの新政権は、植民地国および人民への独立付与に関する1960年12月14日の総会決議1514(XV)への政府のコミットメントをほぼ直ちに更新し、脱植民地化のプロセスを開始した。
13.Changes quickly began to take place in Timor-Leste as political parties began to form around three key manifestos: association with Portugal, independence, and integration with Indonesia. The two predominant of these parties, União Democrática Timorese (UDT - Timorese Democratic Union) and Associação Social Democrática Timorense (ASDT) (which later transformed into Fretilin - Frente Revolucionária de Timor-Leste Independente) were formed in May 1974 and formed an alliance later that year. They were soon followed by minority parties, among them: the Associação Popular Demorática de Timor-Leste (APODETI), Klibur Oan Timor Ass’wain(KOTA), Partido Trabalhista (Labour Party) and the Associação Democrática para a Integração de Timor-Leste na Australia (ADILTA).
13. ポルトガルとの連携、独立およびインドネシアとの統合のおよそ三つの重要なマニフェストを政党が形成し始めたことで、東ティモールの変化が急速に始まった。1974年5月に、これらの党の有力な二つ、ティモール民主同盟(UDT[葡:União Democrática Timorese])とティモール社会民主協会(ASDT[葡:Associação Social Democrática Timorense])(後のフレティリン、東ティモール独立革命戦線[葡:Frente Revolucionária de Timor-Leste Independente、Fretilin]に変わった)が結成され、その年後半に同盟を結成した。すぐに、それらのあいだで少数派の党が続いた:ティモール人民民主協会(APODETI[葡:Associação Popular Demorática de Timor-Leste])、ティモール戦士協会(KOTA[Klibur Oan Timor Ass’wain])、労働党[葡:Partido Trabalhista]、東ティモールオーストラリア統合民主協会(ADILTA[葡:Associação Democrática para a Integração de Timor-Leste na Australia])。
14.In July 1974 the Portuguese Government adopted a new Constitution that affirmed the right of the colonies to self-determination and included an option for independence. A year later, in 1975, a law was passed allowing the formation of a transitional Government to prepare for national elections in Timor-Leste, with a view to ending Portuguese colonization of the territory in 1978.
14. 1974年7月、ポルトガル政府は植民地の自決権を確認し、独立の選択肢を含む新しい憲法を採択した。一年後、1975年に、1978年に領土のポルトガル植民地化を終結させることを目的とする、東ティモールにおける国政選挙準備のための暫定政府設立を可能にする法律が制定された。
15.The Indonesian Government’s response to the decolonization of Timor-Leste was confusing. Indonesia’s then Foreign Minister, Adam Malik, gave assurances in June 1974 that Indonesia would respect the right of Timorese to self-determination and that Indonesia had no territorial interest over Timor-Leste. However, it was evident that a BAKIN-led destabilization campaign, known as Operasi Komodo (Operation Komodo),was already under way. Operasi Komodo succeeded in splitting the alliance formed between Fretilin and UDT by using anti‑communist propaganda and disseminating false allegations that Fretilin planned to stage a military coup.
15. インドネシア政府の東ティモールの脱植民地化への対応は混乱していた。その後、インドネシアの当時のアダム・マリク外相は1974年6月に、インドネシアはティモール人の自決権を尊重し、インドネシアは東ティモールに対して領土的興味を持たないと保証した。しかしながら、コモド作戦として知られるBAKIN[国家情報庁]主導の不安定化キャンペーンがすでに行なわれていたことは明らかだった。コモド作戦はフレティリンとUDTのあいだで結成された同盟を反共産主義のプロパガンダを使うことによって分裂させ、フレティリンが軍事クーデターを計画しているという誤った主張を広めることに成功した。
16.Politically immature, and consumed by Jakarta’s propaganda, UDT staged a coup against the Portuguese Administration in Timor-Leste on 11 August 1975. On 20 August 1975, Fretilin retaliated with the support of Timorese officers within the Portuguese Army, lurching the country into civil war. In the wake of the violence, the Portuguese Governor and his administration in Timor-Leste abandoned the decolonization process and escaped to nearby Atauro Island. The Portuguese Government then refused to re-engage in the decolonization process knowing that an Indonesian invasion was imminent.
16. 政治的に未熟で、ジャカルタのプロパガンダによって踊らされたUDTは、1975年8月11日に東ティモールにおけるポルトガル統治に対してクーデターを起こした。1975年8月20日にフレティリンはポルトガル軍内のティモーレ人将校の支援を受け報復し、この国を内戦に傾けた。暴力を受け、ポルトガルの知事と東ティモールにおける政権は、脱植民地化プロセスを放棄し、近くのアタウロ島に逃亡した。ポルトガル政府は、その後、インドネシアの侵略が差し迫っていることを知り、脱植民地化プロセスへの再関与を拒否した。
17.On 28 November 1975 Fretilin unilaterally declared Timor-Leste independent. A cable to Portugal from, Francisco Xavier do Amaral, the first appointed President of the Democratic Republic of Timor-Leste, made clear that this declaration was necessary because of both Indonesian aggression but also the disinterest of the Portuguese Government in the decolonization process. In exemplary solidarity with Portugal, however, Portuguese flags continued to be flown and the Central Government Building was not taken over - even the black Mercedes of the Portuguese Governor was not touched.
17. 1975年11月28日にフレティリンは一方的に東ティモール独立を宣言した。最初に任命された東ティモール民主共和国大統領、フランシスコ・シャビエル・ド・アマラルからのポルトガルへの電報は、この宣言が、インドネシアの侵略に、ポルトガル政府の脱植民地化プロセスにおける無関心の、両方のために必要だったことを明らかにした。ポルトガルとの連携の一環として、しかしながら、ポルトガルの旗がはためき続け、中央政府庁舎は引き継がれず、ポルトガルの知事の黒いメルセデスさえ触れられなかった。
18.In the short period during which Fretilin had de facto control over the territory, the administration of the State was restored, though still under the Portuguese flag. Fretilin’s administration was referred to as “responsible and moderate” by several foreign delegations who visited the territory around that time. Its manual and policy programme for reconstruction and development of strong principles of social justice with the aim of ensuring progressive and total destruction of exploitation of man by man (destruição progressive e total da exploração do homem pelo homem). Fretilin devised and implemented people-centred policies throughout the territory in four priority areas, agriculture, culture, education, and health service, for the attainment of true independence of the people of Timor-Leste. Specific programmes included adult literacy, communal farms, land reform, the establishment of cooperatives, and health centres.
18. フレティリンが領土を事実上支配していた短期間において、依然としてポルトガルの旗のもとだが、国家統治が回復した。フレティリンの統治は、その頃この領土を訪れたいくつかの外国代表団によって「責任と穏健」と呼ばれた。人間による人間の搾取の漸進的かつ完全な破壊([葡:]destruição progressive e total da exploração do homem pelo homem)を確実にすることを目的とした社会正義の強力な原則の再構築と発展のためのマニュアルと政策プログラム。フレティリンは、東ティモールの人民の真の独立を実現するために農業、文化、教育および保健サービスの四つの優先分野において領土全体に人民中心の政策を策定し実施した。具体的プログラムには、成人識字、共同農場、土地改革、協同組合設立および保健センターが含まれていた。
Indonesian invasion and subsequent occupation
インドネシアの侵略とそれに続く占領
19.Overwhelmed by Fretilin’s force in August 1975, leaders of the UDT, APODETI, KOTA and Trabalhista parties sought refuge across the border in Indonesia, providing a perfect conduit for Indonesia’s military plans. The fleeing political leaders, who were in need of shelter and food, were made to sign a document declaring the integration of Timor-Leste with Indonesia. This declaration, named theBalibo Declaration, was signed in Balibo on 30 November 1975. Some signatories later revealed that the declaration was prepared in Bali, Indonesia, and that they were forced to sign it at gunpoint at the Penida View Hotel in Bali.
1975年8月、フレティリンの勢力によって圧倒され、UDT、APODETI、KOTAおよび労働党の指導者たちはインドネシアの国境を越えて避難しようとし、インドネシアの軍事計画に完ぺきなルートを提供した。避難所と食料を必要としていた逃亡政治指導者たちは、東ティモールとインドネシアの統合を宣言する文書に署名を行なった。バリボ宣言と名付けられたこの宣言は、1975年11月30日にバリボで署名された。一部の署名者は、その後、宣言がインドネシアのバリ島で準備され、バリ島のペニーダビューホテルで銃を突き付けられ署名することを強制されたことを明らかにした。
20.At around the same time, the Indonesian military operation along the border with Timor‑Leste intensified and the military conceived Operasi Seroja (Operation Lotus) for the full invasion of Timor-Leste. On 7 December 1975, against the will of the Timorese people, Indonesia launched a combined land and sea military invasion of Timor-Leste. On 31 May 1976, the Indonesian Government convened a so-called Provincial People’s Assembly consisting of 28 members hand-picked primarily from among pro-integrationist followers of APODETI. This was quickly followed by the Indonesian President’s promulgation of Law 7/1976 on 17 July 1976, which provided for the integration of Timor-Leste as Indonesia’s twenty-seventh province, although the Government of Portugal never relinquished its authority as Administering Power of the territory.
同じころ、東ティモールとの国境沿いのインドネシアの軍事作戦は激化し、軍は東ティモールの完全侵略のためにスロジャ作戦(蓮作戦[インドネシア語:Operasi Seroja])を構想した。1975年12月7日にインドネシアは、チモール人民の意志に反し東ティモールの陸地と海共同の軍事侵略を開始した。1976年5月31日にインドネシア政府は、APODETIの親統合主義者の中から主に選んだ28人のメンバーからなる、いわゆる州人民会議を開催した。これにはすぐに、ポルトガル政府がこの領土の統治国としての権利を放棄したことは無かったが、インドネシアの27番目の州として東ティモール統合をもたらす1976年7月17日のインドネシア大統領の1976年7月法の公布が続いた。
21.As the invading forces advanced and took control of key towns, Fretilin leaders and the population evacuated and formed bases de apoio (support bases) in the areas controlled by the Armed Forces for the Liberation of Timor-Leste (Forças Armadas de Libertação Nacional de Timor-Leste - Falintil). Fretilin continued to implement its administrative programmes in the bases de apoio.
21. 侵略軍が進み主要都市を掌握すると、フレティリン指導者と住民は避難し、東ティモール解放軍([葡:]Forças Armadas de Libertação Nacional de Timor-Leste - Falintil)により支配された地域にバジス・ジ・アポイオ([葡:bases de apoio]支援拠点)を組織した。フレティリンはバジス・ジ・アポイオにおいてその統治プログラムの実施を続けた。
22.Despite its important initiatives, Fretilin’s administration following the declaration of independence and in the liberated support bases was not free from criticism. Allegations were made of human rights abuses including torture and summary execution of persons charged with treason or collaboration with occupying forces.
22. 重要なイニシアティブにもかかわらず、独立宣言と解放された支援基地において続くフレティリンの政権は、批判から自由ではなかった。反逆や占領軍との協力で告発された人の拷問や即決の処刑を含む人権侵害の申し立てが行なわれた。
23.Following the invasion the human rights situation rapidly deteriorated. The occupation was characterized by systematic and gross human rights violations against the Timorese population: mass killings, forced relocations, disappearances, expatriation, restriction of movement, forced labour, arbitrary arrest and detention, and political incrimination. Among the bloodiest events were the bombing of the Matebian region that caused tens of thousands of civilian of casualties, the Kraras massacre in Viqueque District 1983 where the adult male members of the entire village were executed leaving only women and children behind, and the Santa Cruz massacre in Dili in 1991.
23. 侵略を受け人権状況は急速に悪化した。占領は、ティモール住民に対する体系的かつ全体的人権侵害によって特徴付けられた:大量殺人、強制移住、失踪、国外追放、移動制限、強制労働、恣意的な逮捕と拘留、および政治的有罪。最も血塗られた出来事の中には、数万の市民死傷者の原因となったマテベア地方爆撃、村全体の成人男性が女性と子供だけをあとに残して処刑された1983年のヴィケケ県におけるクララズ虐殺、および1991年ディリにおけるサンタクルス虐殺だった。
24.It has sometimes been overlooked that during the occupation women also suffered degrading treatment at the hands of the occupying forces and their proxies, and also played an active role in the resistance movement. Abuses against women included rape, sexual harassment, sexual slavery to Indonesian troops and forced marriage to Indonesian soldiers. Women who had or were presumed to have links with the resistance were especially at risk. Forced family planning was also introduced, particularly for the wives of civil servants.
24. 占領中に占領軍とその代理人の手で女性も屈辱的な扱いを受け、抵抗運動においても積極的な役割を演じたことはときに見落とされた。女性に対する虐待には、強姦、性的嫌がらせ、インドネシア軍への性的奴隷制度およびインドネシア兵への強制結婚が含まれていた。レジスタンスとの関連があった、またはあることが推測された女性はとりわけ危険にさらされた。とくに公務員の妻のために、強制家族計画も導入された。
25.Human rights violations committed during the Indonesian occupation have been the subject of recent investigations and hearings by the Commission on Reception, Truth and Reconciliation (CAVR). Further detail is provided on this in the section on the work of the CAVR and also in the CEDAW treaty-specific document.
25. インドネシアの占領期間中に犯された人権侵害は、受容真実和解委員会(CAVR)による最近の調査と聴聞の対象となっている。詳細は、これのCAVRの作業に関するセクションおよびCEDAW条約指定文書において提供されている。
Struggle for independence
独立のための闘争
[…]
Political change
政治的変化
30.Throughout Indonesia’s occupation of Timor-Leste, the annexation of the territory was portrayed by the Indonesian Government as a manifestation of Timorese self-determination. Indonesian diplomats often argued that Indonesia had intervened to stop the civil war and to prevent bloodshed. Direct accounts of various actors and declassification of secret documents have since revealed that the invasion was carried out with the full support of Western powers and was perceived as a means to combat any possible communist expansion following defeat of the United States in the Viet Nam war.
30. インドネシアの東ティモール占領期間中、領土併合はインドネシア政府によってティモール人の自決の表明として描写された。インドネシアの外交官は、インドネシアが内戦を止め、流血を防ぐために介入したとしばしば主張した。さまざまな当事者の直接的な証言と秘密文書の機密解除は、侵略が西欧諸国の全面的な支持により行なわれ、ベトナム戦争における米国の敗北後、あらゆる共産主義拡大の可能性に対抗する手段として認識されたことを明らかにしている。
31.Whilst tacitly supported by a few States, the Indonesian Government faced international condemnation following the invasion. Officially, the United Nations never recognized Timor‑Leste’s annexation and from 1975 the United Nations General Assembly and Security Council adopted numerous resolutions condemning the military invasion and calling for the withdrawal of Indonesian troops from Timor-Leste. In 1982, the General Assembly adopted resolution 37/30 of 23 of November 1982, which requested that the Secretary-General to initiate consultations with directly affected parties to explore avenues for a comprehensive resolution, giving rise to a catalogue of tripartite discussions between Portugal and Indonesia under the auspices of the Secretary-General. Nevertheless, years of diplomatic discussion failed to yield a significant shift in Indonesian policy on the issue.
31. 少数の国々による暗黙の支持のいっぽう、インドネシア政府は侵略後、国際的非難に直面した。公式に、国連は東ティモールの併合を認めたことは無く、1975年から国連総会と安全保障理事会は、軍事侵略を非難し、インドネシア軍の東ティモールからの撤退を求める多数の決議を採択した。1982年、総会は決議1982年11月23日の37/30を採択し、それは包括的解決策の道を模索するために、事務総長の後援のもとポルトガルとインドネシアとの三者間協議の目録を起こす、直接影響を受けた当事者との協議を開始することを事務総長に要請した。それにもかかわらず、何年もの外交面での議論は、この問題に対するインドネシアの政策における大きな転換を生じさせることはできなかった。
32.It was not until 1998, shaken by economic crisis and internal pressure for political reform, that Jakarta moderated its position and informed the Secretary-General and Portugal that it was willing to allow Timor-Leste broad autonomy. This was certainly a significant gesture though it presented only an interim option for the Timorese resistance leadership who were intent on a transition to independence. Then in January 1999 Indonesian President, B. J. Habibie announced that Indonesia was willing to hold a popular consultation with the people of Timor-Leste on Indonesia’s proposal to grant the territory the status of Special Autonomous Region within the Unitary Republic of Indonesia. Although independence was not an explicit option on which Timorese were to be consulted, it was clearly the alternative, if the autonomy proposal was rejected. On 5 May 1999, the parties (Portugal, Indonesia, and the United Nations) signed an agreement for popular consultation with the East Timorese through a direct ballot and the United Nations Assistance Mission for East Timor (UNAMET) was born to give effect to such modalities on the ground. Indonesian police retained responsibility for the maintenance of law and order during the popular consultation.
32. 経済危機と政治改革の内圧に揺さぶられ、1998年に初めてジャカルタはその立場を調整し、事務総長とポルトガルに東ティモールの広範な自治を可能にすることを告げた。独立への移行に没頭していたティモール人レジスタンスのリーダーシップのための暫定的な選択肢のみを提示したにもかかわらず、これは確かに大きな身ぶりだった。その後、1999年1月、インドネシアのB. J. ハビビ大統領は、インドネシアが、インドネシア統一共和国内の特別自治地域の地位を付与するというインドネシアの提案に対する東ティモールの人々との一般協議を行なう意思を表明したと発表した。独立は、ティモール人が意見を求められた明示的選択肢ではなかったが、自治の提案が拒否された場合、それは明らかな代替案だった。1999年5月5日に、当事者(ポルトガル、インドネシアおよび国連)は、東ティモールとの直接協議を通じた一般協議のための合意に署名し、国連東ティモール援助ミッション(UNAMET)が、そのような現地での手順に影響を与えるために生まれた。インドネシア警察は一般協議中、法と秩序の維持の責任を保っていた。
33.In Indonesia, the offer of a popular consultation on independence by the Habibie Government was met with significant opposition in some sectors. As arrangements were being made in Timor-Leste for the popular consultation, the numbers of paramilitary groups burgeoned. Groups that had once been part of Operasi Komodo and Operasi Seroja, as well as new ones, flourished by employing aggressive recruitment campaigns of intimidation and death threats. These groups, whose members included Indonesian Army, civilian hard-liners, disaffected youth and forced recruits, initiated a campaign of terror across the territory that was apparently intended to disrupt the process, to encourage people to vote pro-autonomy and to punish pro-independence supporters. Many people were forced to flee their homes and seek refuge in the Falintil-controlled areas throughout the territory, while others fled oversees.
33. インドネシアでは、ハビビ政権による独立に関する一般協議の提案は、一部の派において大きな反対にあっていた。東ティモールにおいて一般協議のための準備が行なわれたので、民兵組織の数が急増した。以前コモド作戦とセルジャ作戦の一部だったグループに加え新たなグループが、恫喝と死の脅迫活動の攻撃的使用により跋扈した。インドネシア軍、民間の強硬派、不満を募らせた若者および強制徴用を含むこれらのグループは、プロセスを混乱させ、自治支持を投票することを人々に促し、独立支持の支援者を処罰することが明らかに意図された、領土全域のテロ活動を開始した。多くの人々は自宅から避難することを余儀なくされ、領土全域のファリンティル支配地域において避難所を探し、その他の人々は海外へ逃亡した。
34.Besides paramilitary groups, which were gathered under the umbrella organization Pasukan Pro-Integrasi (PPI, Pro-Integration Forces) new pro-Indonesian civilian organizations were formed. These included Barisan Rakyat Timor-Timur (BRTT - East Timor People’s Front) and Forum Perdamaian, Demokrasi dan Keadilan (FPDK - Peace, Democracy and Justice Forum), among others. These organizations conducted extensive propaganda campaigns to disorientate Timorese. Despite these campaigns of propaganda and violence in the lead-up to the referendum, the conviction of the Timorese people remained. On ballot day, 30 August 1999, more than 95 per cent of around 450,000 registered voters visited the ballot booths.
34. 傘下の組織、親統合軍(PPI[インドネシア語:Pasukan Pro-Integrasi])のもとで集められた民兵組織のほかに、新たな親インドネシア民間組織が結成された。これら数ある中には、東ティモール人民戦線(BRTT[インドネシア語:Barisan Rakyat Timor-Timur])と平和、民主主義と正義のためのフォーラム(FPDK[インドネシア語: Forum Perdamaian, Demokrasi dan Keadilan])などが含まれた。これらの組織はティモール人を混乱させるための広範なプロパガンダ活動を行なった。国民投票に到るまでのこれらプロパガンダと暴力活動が行われたにもかかわらず、ティモール人民の信念はそのままだった。1999年8月30日の投票日に、およそ45万の登録された投票者の、95%以上が投票ブースを訪れた。
35.On 4 September the result was announced with an overwhelming 78.5 per cent of voters advocating a transition to independence and rejecting autonomy with Indonesia. Despite accusations of bias and voting irregularities, the United Nations Electoral Commission declared the result valid and a true reflection of the wish of the people of Timor-Leste.
35. 9月4日に投票者の圧倒的78.5パーセントが独立への移行とインドネシアでの自治の拒否を唱える結果が発表された。偏向と不正投票の非難にもかかわらず、国連選挙管理委員会は結果が有効であり、東ティモールの人々の希望を真に反映したと宣言した。
36.Following the announcement of the result, Indonesian Armed Forces and their backed militia groups responded quickly with the launch of a violent and systematic campaign of killings, torture, arson, and massive forced displacement of the population. Up to 250,000 civilians were forced to flee to West Timor and other parts of Indonesia, whilst the rest escaped to safe places within Timor-Leste. Overall, it is estimated that around 75 per cent of the country’s infrastructure was destroyed and around 630 people were killed between January and October 1999. It was not until 15 September, following agreement with the Indonesian Government, that the Security Council authorized the deployment of a multinational force. On 20 September 1999, the first contingent of the Australian-led International Forces for East Timor (Interfet) arrived in the capital Dili to undertake the mission of restoring peace and security, protecting and supporting UNAMET in carrying out its tasks (within force capabilities), and to facilitate humanitarian assistance operations.
36. 結果の公表に続いて、インドネシア軍とそれらに支援された民兵組織は、殺害、拷問、放火、および西ティモールとインドネシアの他の部分への大規模な住民の強制移動の暴力的かつ体系的活動の開始により、すぐに対応した。最大25万の市民が西ティモールやインドネシアの他の地域に避難を強いられ、残りは東ティモール内の安全な場所に逃れた。全体として、この国のインフラのおよそ75%が破壊され、1999年1月から10月のあいだにおよそ630人が殺害されたと推定されている。インドネシア政府との合意に続き、9月15日になって安全保障理事会が多国籍軍の配置を承認した。1999年9月20日にオーストラリア主導の東ティモール国際軍(Interfet)の最初の派遣部隊が、平和と安全の回復、(遂行能力内の)役割遂行におけるUNAMETの保護と支援、および人道援助活動の円滑化の任務にあたるために首都ディリに到着した。
United Nations Administration - Transition to full independence
国連の統治 - 完全独立への移行
[…]
2018年6月2日
2018年6月7日(東ティモール:追加)
*1:参考:「フィリピン・北部ルソン社会における日系人のアイデンティティ」(森谷裕美子、2014年)「先住民文化(あるいは土着文化、indigenous culture)」とは、少なくとも近代以前から現地に根付いているものだろう。この論文が扱っているのは「戦前」、アメリカ統治下1900年代以降に北部ルソンへ渡った日本人について。それとは別に江戸の鎖国以前に持ち込まれた「文化」がどこかに残っている??(というか共通コアドキュメントの記述はそのアメリカも含めているので、近代以降におけるその影響も含めて「先住民文化」としているのだろう)。