dancept1の備忘録

答弁権のエソロジー

東京裁判におけるレヴィン弁護人による南京での被害者数への言及


さいきん下記のようなニュースが報じられていたが、

好評の(?)マッカーサーの報告 *1 に続き、『国立国会図書館デジタルコレクション』で公開されている、Court Record of the International Military Tribunal for the Far East. 1946/08/29 (pp. 4,449-4,565) (『極東国際軍事裁判記録 1946/08/29(pp. 4,449-4,565)』、以下『裁判記録』と表記)からマイケル・レヴィン(Michael Levin)弁護人による南京での被害者数への言及を含むやり取りの部分(p. 4561)を抽出した。

同サイトには、極東国際軍事裁判議事録日本語記録 Japanese Record of Proceedings of the International Military Tribunal for the Far East(『極東國際軍事裁判速記録』、以下『日本語記録』と表記)もアップされている。法廷での日本語同時通訳の速記録にモニターによる訂正を追記採録した版で、こちらも、その第58号より当該部分(p. 18-19)を抽出した。

PDF 原稿のテキスト化時の修正モレはご容赦。上記ドキュメントの掲載元へのリンクは当記事末尾にまとめた(こちら)。また、もんだいの被害者数関連ではないが、抽出した最後、裁判長の結論部分がやや?で『裁判記録』の日本語訳も試みた *2 。そもそも当方の日本語訳が心もとないというのはごもっともであり(苦笑)、南京でのこの類いの「検査(tests)」にまつわる件についても今回はじめて知った次第だが[追記:こちらも参照]——いかがであろうか。

レヴィン弁護人の発言

20万については、たしかにウェッブ裁判長に発言を打ち切られているのだが、弁護側の証拠提出の「段階」で提出せよ、ということのようだ。なのだが、口火を切ったブルックス(Alfred W. Brooks)弁護人が(「血清検査」を引き合いに)もんだいの調書 *3 全体の信ぴょう性に疑念を呈し[追記:こちらも参照]、続いてレヴィン弁護人も一貫して(人口についても指摘しつつ)この調書の扱いについての指摘を行なっているように見える。

これに対し、裁判長は原則を示しつつ、「血清検査」の「供述」に話をずらしているように見えなくもない。弁護人側もムダと承知しているのか *4 ネタがなかったか「証拠」を却下させようとがんばる気はなく、あっさり引き下がっている *5 。法廷ではけっきょく、この件に関する弁護側からの説明はなされなかった模様だが、南京安全区国際委員会から各国への食料支援要請にも使用された、安全区での人口調査をもとにしたのであろうか。

また、あるいは、20万への言及を含む国際委員会発出の書簡は当裁判にも提出されているということで、この日の裁判記録にも法廷証 No. 323 として14通が採録されているなか *6 、書簡「第十」には「二十萬ノ一般人ノ苦悩」*7 および「二十萬ノ中國人ヲ養ヒ」*8 、書簡「第二十」には「南京二十萬市民安寧ノタメ」*9 および「二十萬人民ヲ一週間養フ」*10 との記述がある *11

上記は1937年12月18日および21日と日本軍占領後まもなくの書簡で占領前・後ではないが、この時点において改めて調査を行なっていたとは考えにくく、国際委員会としては占領時の人口は20万と認識していたことを示しているとみてよさそうではある。

これに対する大虐殺派の反論は、安全区以外に残っていた人々の存在とりわけ城外を含んでの数字だとする説明から、逃亡捕虜の殺害に関する事例などをまぶしつつ数字の問題ではないとするちゃぶ台返しまでさまざま。また、30万の根拠にするのには無理があるとおもうのだが、便衣兵の掃討およびその際の一般市民の巻き添え、反乱捕虜の鎮圧ならびに捕虜の処置自体に関する話なども入り乱れ、もとの一般市民の話はどこかへ行ってしまったりする。いずれにせよ、海外では無垢な一般市民30万人が無残に虐殺されたというイメージだろう。アイリス・チャンの影響も大きい。

「暖春の旅」

ウイグル(や香港)の人権問題、新型コロナに揺れる北京オリンピックも間近で。前回の北京オリンピックのときには(2008年夏季)、東京財団の招きに応じて張連紅・南京師範大学教授(南京大虐殺研究センター主任)と程兆奇・上海社会科学院歴史研究所研究員が送り込まれ、下記のような発言を行なったりしていた。もっとも、中国国内——あるいは日本以外——では一切報じられていないのだろう。

前年の2006年には八年ぶりの日中共同文書が発表され、 日本の戦後の平和国家としての歩みを書面で初めて高く評価 *13 、オリンピック三か月前の2008年5月には仕上げに胡錦濤みずからが「暖春の旅」と称して十年ぶりとなった国家主席訪日を行ない、「戦略的互恵の包括的推進に関する日中共同声明」を発表、早稲田大学で講演を行なうなど日中親善ムードを盛り上げた *14

このときの北京は国家の威信を掛けた中国初のオリンピック開催。今回はそれほどまでは表立った働きかけは見られなかったようではあるが、日中の力関係もすでに変わってしまってもいる。胡錦濤のあとを襲った習近平政権は、「中華民族の偉大なる復興」を掲げ鄧小平の「韜光養晦」を投げ捨て、露骨な「戦狼外交」を突き進めていると。とはいえまぁ水面下ではいろいろあったのだろう。

[追記]中支防疫本部南京支部の報告

その後、南京市民への「予防接種」の報告記録を目にしたので下記資料を追記。旧字カナ使いなど表記を適宜変更、太字は当方による。占領後約九か月後の時点での報告ということになる。

中支防疫本部南京支部 「第四回業務報告」 昭和13[1938]年9月30日

[…]当班到着前同仁会第一診療班にて実施せる八万余を合し総数三十六万数千に達する数字を得べし

九月末現在の南京市内人口総計(市政公署調査)9万7,839戸39万2,715人と対比する時少なくとも城外地区の一部遠隔不便の地域を除き南京市内の「コレラ予防接種」は完璧に近き成績を挙げ得たりと云うべし[…]

[…]南京市公称人口三十九万余は既に公署当局が声明せる如く更に四、五万の未登録を免れさる所として大略45万内外を数うるを以て至当とすべく[…]

なお上記の防疫活動に関しては、「悪疫から守る 中支における我が施療班の活躍」と題された『アサヒグラフ』増刊『支那事変画報』 第十七集(昭和13年6月5日)掲載の写真記事(1938年5月1日 岡特派員撮影)も画像をググれば見られる。記事にも

南京四十萬の全市民に種痘とコレラの予防注射を開始した

とあるようだ。「大虐殺」が行なわれた場所へ人々が流入し、九か月で人口が倍になった計算である(ただし、ここでは「城外地区の一部遠隔不便の地域を」とあるように「城外地区」を含んでいる)。また「これは「検査」とは別なのである」等の主張や、当時の(これだけの規模であるので)外信など日本側以外の資料も残っているのかなどは不明。



2022年01月30日

*1:

*2:『日本語記録』と『裁判記録』原文をこちらにも併記し、煩雑だがパラグラフごとに対訳。なお、今回の抽出対象外で、かつ、こちらはあきらかに『日本語記録』の誤りだろうが “from December 26, 1937 to April 20, 1938” を「一九二七年十二月二十六日頃ヨリ三十四年四月二十日」としている箇所も目についた(『裁判記録』p. 4,537/コマ番号 94  行番号 12-13 、『日本語記録』p. 17/コマ番号同、段組 2)。

*3:現在にいたる中国政府の公式見解のもととなった「証拠」ということだろう(『裁判記録』p. 4,540-4.548/コマ番号 97-105 、『日本語記録』p. 17-18/コマ番号同)。法廷証 No. 327 。

*4:この「証拠」書類は南京法廷の検察がまとめた調書である。

*5:現在では、「訂正」された数字(27万9,586人)でも合計が合わない杜撰さとは別に、埋葬数など明細の数字自体にもいろいろ突っ込みがあるようである。

*6:『裁判記録』p. 4,508-4,536 /コマ番号 65-93 、『日本語記録』p. 12-17/コマ番号同。中華民国国際連盟代表団専門委員・法科研究所所長だった徐淑望・編の Documents of the Nanking Safety Zone(『南京安全区攩案』)(Kelly & Walsh, Limited(上海、香港、シンガポール)、1939年)からの抜粋。同書の邦訳は『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』、展転社、2004年がある。

*7:『裁判記録』p. 4,516/コマ番号 73 行番号 8 、『日本語記録』p. 14/コマ番号同、段組 1 。

*8:同上 p. 4,519/コマ番号 76 行番号 8 、同上 p. 14 段組 3 。

*9:同上 p. 4,531/コマ番号 88 行番号 23-24 、同上 p. 16 段組 2。

*10:同上 p. 4,532/コマ番号 89 行番号 12 、同上 p. 16 段組 2 。

*11:『日本語記録』からざっと抽出したが、旧字カナ混じり文にスキャン品質で(内容も相まって)読みにくい。ちなみに弁護側が、この8月29日の裁判冒頭で、証人の供述書が証拠書類として採用されるいっぽう、法廷が証人を出頭させず尋問を行なえないことについて申し立てを行なっている。「スマイス報告」のルイス・S・C・スマイス(『日本語記録』「スミス」表記)博士、続いて「マギーフィルム」を持ち出しアメリカで宣伝していたジョージ・アシュモア・フィッチ宣教師の宣誓供述書の提出で始まるのだが、ことにフィッチ宣教師は少し前まで在京していたとのやり取りがある。なお、上記のフィルムは「証拠」としては法廷に提出されておらず、撮影者のジョン・マギー宣教師は8月15・16日に検察側証人として証言台に立ち多くの証言を行なったものの、ブルックス弁護人の尋問により本人が直接目撃したのは殺人一件だけだったことが明らかになっている。このうち8月15日の『日本語記録』第48号はアップされていないが、『国立公文書館デジタルアーカイブ』で閲覧できる( *15 参照)。

*12:チャンネル桜』だろう。同チャンネルの YouTube アーカイヴはほとんどが観れなくなっており、ニコニコ動画のほうも2010年以降のものしかない模様。

*13:下記「2.全般的評価」で「中国側が[…]文書の形で評価したのは、これが初めて。」と胸を張っている。この程度のことで「評価」できるのかというかんじだが、少しは何かの言質にもなろうというところだったか。「戦後の平和国家としての歩み」は、人権理事会等で「歴史問題」が議論となった際に毎回外務省が持ち出す(そして議論になっていることがらそのものに対しては何ら有効ではない)反論なのは、当ブログで再三紹介したとおり。

www.mofa.go.jp

*14:「1.日程概要」に、「北京オリンピックを支援する議員の会」(会長:河野洋平衆議院議長(当時))との会見もあった。

www.mofa.go.jp

*15:国立公文書館デジタルアーカイブ』でも閲覧可能だがスキャンが不味く読みにくい。公文書館で架蔵しているのは、1964年に『日本語記録』を法務省大臣官房司法法制調査部が集めてまとめたもののようである(下記)。www.digital.archives.go.jp

(同上、英語版サイト)www.digital.archives.go.jp

("A級極東国際軍事裁判速記録(和文)" 検索結果(10件))www.digital.archives.go.jp

(同上、英語版サイト)www.digital.archives.go.jp