dancept1の備忘録

答弁権のエソロジー

北朝鮮における人権に関する国連調査委員会の詳細調査報告書における歴史記述


文書番号:A/HRC/25/CRP.1

ノート:

(目次)

1. 調査報告書について

2. Ⅲ章/北朝鮮における人権侵害の歴史的・政治的背景

A.植民地時代以前の歴史

B.日本による植民地支配の時代(1910年~1945年)

C.朝鮮半島の分断、朝鮮戦争とその後遺症

E.金王朝のもとでの権力基盤固め

F.国外の動向と人権状況

3. 外務省ホームページ

4. 国連広報センター

5. 国連人権高等弁務官ソウル事務所ホームページ

6. 国連人権高等弁務官事務所ホームページ

「 OHCHR | COlDPRK 朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会」

「 OHCHR | 経歴」

「 OHCHR | COlDPRK 公聴会」

「 OHCHR | COlDPRK 朝鮮民主共和国における人権に関する国連調査委員会の報告書」

「プレスリリ―ス」(英語)/「声明」(英語)

7. 国連公式文書システム

8.( UN Web TV より)

9.(各社報道より)

ロイター

AFP

CNN

朝日新聞

産経ニュース

中央日報

東亜日報

ニューズウィーク日本版

週刊朝日

10.(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)

11. 関連エントリ

(日帝840万人拉致説)

(歴史記述)

(自由権規約委員会)

  1. 調査報告書について

    • 国連人権高等弁務官ソウル事務所ホームページ「リソース」掲載の、「朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する国連調査委員会の報告書(詳細版)(仮訳) 」(2014年2月7日)より。日本語への「仮訳」版 *1

    • 「要約報告(Summary Report)」として、同日発行の A/HRC/25/63 の日本語仮訳「朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する国連調査委員会の報告」もアップされている。こちらには歴史記述は無し(下記 3. 外務省ホームページなどでは「本文」としており、「仮訳」では割愛されているが、原文書では付属書として「朝鮮民主主義人民共和国最高指導者および朝鮮労働党第一書記、金正日とのやり取り」「中国とのやり取り」の書簡が添付されている。前者に返信は無い)。

    • 本調査委員会は、2013年3月21日の人権理事会第二十二回セッションにおいてEUと日本が決議案 A/HRC/22/L.19 を共同提出し投票なしのコンセンサスで採択された、決議 A/HRC/RES/22/13 により設置された。ソウル、東京、ロンドン、ワシントン D.C.公聴会が開かれ(北朝鮮と中国は協力拒否)、現地各国政府が「実施に向けて運営面・物質面での支援」を行なっている(パラグラフ31)。委員会の日本訪問は2013年8月27日から9月1日まで。公聴会のほか「日本国総理大臣、さまざまな省庁の関係者、国内及び国際的な非政府組織及び市民団体との会合」が行なわれた(同40)。3. 外務省ホームページの「報道発表」なども参照。

    • 報告書は、「国家の最高レベルで制定された政策に基づく人道に対する犯罪が行われ[…]現在も進行中」と指摘し(パラグラフ1160)、国連と安保理に対し国際刑事裁判所ICC)への付託を勧告した(同1225)。北朝鮮への勧告(同1220)のほか、中国への勧告も行なわれている(同1221(e)(f))。

    • IV章「調査委委員会の調査結果」の「F. 拉致を含む外国からの強制失踪」に、日本人の拉致や「地上の楽園」への帰還事業についての詳細な報告がある(p. 333 - 348)。「本委員会は、少なくとも100名の日本人が北朝鮮に拉致された可能性がある(probable)と考えている」(同932 )とし、特定失踪者問題調査会による「約280名の日本人拉致被害者がいる「可能性がある(likely)」などの数字(同959)や、偽装船による日本船襲撃時の船員殺害にも言及している(同927、959)。「楽園帰還運動」では朝鮮総連の関与に言及し、マスコミによる「誘導」についても触れている(同916、918)。

    • ここでは、人権理事会による公式な歴史認識ということになるだろうⅢ章「北朝鮮における人権侵害の歴史的・政治的背景」(p. 24 - 49)より、「C.朝鮮半島の分断、朝鮮戦争とその後遺症」までと、それ以降はおもに中韓日への言及を含むパラグラフを抜粋した。なお、委員会のメンバーは法律家や人権問題の専門家で、歴史の専門家はいない。経歴等は 6. 国連人権高等弁務官事務所ホームページの調査委員会サイト「 OHCHR | 経歴」参照(日本語版資料あり)。同ページによれば、「調査委員会は、事務局を構成する九名の経験豊富な人権関係の職員のチームによって支援されている」。

    • この「仮訳」を参照する際には、3. 外務省ホームページ掲載の PDF ファイルにあたる方が便利 *2 。ソウル事務所掲載版の表紙に「[こ]れは国連による公式な翻訳ではありません」とあるように、訳文は外務省による「仮訳」のようである。

  2. Ⅲ章/北朝鮮における人権侵害の歴史的・政治的背景

    ツッコミどころも多いのでこの項でも引用していくつか取り上げるが、いちいち引っかかるので思いのほか長くなってしまった(苦笑)。

    儒教に基づく社会構造と日本による植民地支配時代に被った抑圧は、今日の北朝鮮に見られる政治構造・政治姿勢を理解するうえで参考になる。

    (パラグラフ85。以下番号のみ記載)。儒教と、(「植民地支配」という表記は置くとしても)日本による「抑圧」を前提にこんにちの政治構造・政治姿勢を理解しようと試みる。当方も「抑圧」の存在を否定するものではないが、以下その中身を概観してみる。
    歴史・政治構造についての記述は、必然的に、それを記録する者の出自と視点を反映する。調査委員会は、[…]バランスの良いアプローチを生み出し、入手しうる限りで最も信頼性の高い情報源を利用しようと試みた。

    (86)。北朝鮮の「視点」にも配慮したことを述べる文脈だが、日本の「視点」をじゅうぶん反映させるのに(日本政府は)明らかに失敗している。拉致問題について報告させるのが第一だったのだろうが、後述のパラグラフ91や94などお粗末。国連すなわち連合国史観まで覆すのは荷が重いというところだったか *3 。問題は、(北)朝鮮の「視点」を理解するのはこんにちの「政治構造・政治姿勢を理解する」のに資するだろうが、結局その「視点」からの見方が、歴史についての「最も信頼性の高い情報源」として扱われていることである *4 。出典の明示が無いのも問題だろう。

    • A.植民地時代以前の歴史

      両班」への言及(88)、および伝統的な女性の地位についての記述がある(89)。
      また奴隷制度及び強制的な年季奉公も行われていた。
      同様に、女性の地位は、伝統的な男女差別主義による悪影響をいまだに受けている。

      これらから朝鮮の妓生制度についても論じることは可能だったろうが、慰安婦問題についてはこのⅢ章(歴史的・政治的背景)でも言及されていない。この件については、やはりというか、2013年9月17日の理事会での進捗報告と記者会見用に事前準備されていた資料 *5 に記載があった。(現)北朝鮮の「人権に関する調査」ということで、歴史に関する章が報告されることも知ってか知らずか問い合わせ殺到?。

      9.慰安婦問題を調べたのか?。なぜか、または、なぜそうではないのか?。

      人権理事会は、朝鮮民主主義人民共和国の建国前に起こった違法行為について我々に調査するよう求めなかった。しかしながら、委員会は、日本の植民地化や占領時代を含め、朝鮮の人々の歴史的経験によっても形成される違法行為やそれを支える構造がかなりの範囲であることを認識している。例えば、戦時中の非自発的な性労働の問題は、朝鮮の人々に影響を及ぼす人権の継続する問題である。しかしながら、COIはこの問題を明示的に扱う提出物を受け取っていない。また、COIが人権理事会から受け取った詳細な要請に列挙された問題でもなかった。

      委員会のマンデートについては、7. 国連公式文書システムの理事会決議 A/HRC/22/13(英語)や、報告書のⅡ章、調査委員会サイトの「インフォメーション・シート」(日本語)などを参照。人権に関する情報の( NGO などからの)提出物 *6 次第ということで、親北NGO がこれを逆手に慰安婦キャンペーンに活用できなかったのは珍しいポカか。この時点でも情報提出の締切まで二か月あったので委員会としては絶賛受付中というところ。それよりこの委員会の「認識」は、何か曖昧で微妙な言い回しになっているように思える。上述のような歴史的社会的背景や日韓を訪問して得た知見などにより、日本側の主張にも一定の理解を示している、てなことは無いとはおもうが *7 *8

    • B.日本による植民地支配の時代(1910年~1945年)

      日本による朝鮮の植民地支配の前には、数世紀にわたって中国、日本、モンゴル、満州、後にロシア、フランス、アメリカによる侵略やこれらの国との交流を通じた朝鮮と、世界との接触があった。

      満州」を「モンゴル」と並べて明確に「中国」と区別しているのは、清国が登場するので記述しただけかもしれないが注目される *9

      日清戦争(1894年~1895年)の結果、日本は朝鮮と中国との冊封関係を終わらせ、朝鮮を正式に独立国とした。これによって日本は朝鮮半島での影響力を増大させることが可能になった。

      「影響力を増大させることが可能になった」のは事実だが、朝鮮半島がロシアの圧迫からの緩衝地帯になっていたという日本の「視点」は当然ながら見落とされる *10

      日露戦争(1904年~1905年)では日本が旅順港(中国、大連)でロシア艦隊を壊滅させた。これを機に、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介によりニューハンプシャー州ポーツマス講和条約が結ばれ、朝鮮を日本の保護国とすることが認められた。

      日本海海戦旅順港海戦(または陸の旅順攻囲戦と?)と混同している。いずれにせよ「ロシア艦隊を壊滅させた」こととポーツマス条約には言及し「日本の保護国とすることが認められた」としている *11 。また単にポーツマス条約とせず、セオドア・ルーズベルト<米>大統領による仲介に言及。これによりルーズベルトノーベル平和賞を受賞したのだが、後の北朝鮮の反米姿勢にこのときのアメリカの態度が関係があるという仄めかし(?)。

      1910年、日本は朝鮮を植民地とすることを公式に宣言し、君主制を廃し、日本の天皇に忠誠を捧げることを朝鮮の人々に求めた。

      南北の「無効論」により(?)「日韓併合条約」はスルーし「併合」というコトバは使われない(以上90)。以下、日帝による数々の悪行が並ぶ。

      日本は、社会・行政・経済の仕組みを含めて、さまざまな近代化改革を課した。それにもかかわらず、朝鮮人は植民地時代の体験を圧倒的にネガティブで残虐なものとして捉えている。

      朝鮮人の「視点」として記述はしている。が、続けて以下の記述を列挙することにより、朝鮮人による「視点」ではなく、「圧倒的にネガティブで残虐」だったのが「事実」であったように誘導される。

      朝鮮人は自国のなかでも民族差別的な法律の対象となった。朝鮮語を話すことを禁じられ、日本風の氏名を名乗らされた。行政の上級職はすべて日本人で占められ、日本は行政サービスにおける役割を満たすため、70万人前後の日本人を送り込んだ。

      日本人の数(朝鮮総督府の統計はこのあたりの数字だろう)以外は南北の主張そのものの雑な記述。個々の事実関係について、「痛切な反省の意」を表すのみの日本政府は、韓国側が主張したであろう歴史認識 *12 や、公開前に報告案の提示がなされたと想像されるがこうした記述への反論などは行なわなかったのだろう(しても無視された可能性も高いが)。

      朝鮮人のためというよりも、宗主国のために、輸送、通信、工業、さらには農業までもが拡大された。

      「拡大」は紛れもないので記載 *13 。「宗主国のために」、「までもが」。「宗主国のために」もなることは間違いないのだが、いちいちこれらの文言を入れ込まずにはいられない「恨」が不気味な文章ではある。

      朝鮮半島における日本による近代化は、開発の進展/遅延が混在するという様式を特徴としている。日本が結局のところ朝鮮の発展を助けたのか否かという問題は、政治的にも、また学会においても依然として大きく見解が分かれている。

      そりゃ「遅延」もあっただろう。ぜんたいとして欧米の植民地支配に比べると「開発の進展」「を特徴としている」で問題があるのか(笑)。最後に「見解が分かれている」としただけ、まだ良心的(?)(以上91)。

      1919年の三・一独立運動は、ソウル、ピョンヤンなど朝鮮の複数の都市で、学生をはじめとする朝鮮人による日本の支配に対する抗議行動を引き起こした。これらの非暴力デモはその後数日のうちに多くの都市・町に広がった。日本の当局は数千名の朝鮮人を逮捕し、その多くは、拷問や非人道的な拘置環境の結果として死亡した。

      「その多くは」。すごい誇張。これも朝鮮人の「視点」だが、そうは読めない(92)。

      朝鮮住民の多くは自らの農業基盤から引き離された。女性・児童を含む朝鮮人が、半島北部及び満州の工場や日本の炭鉱その他の企業での労働に派遣された。こうした労働者の多くは過酷な条件下で働かされ、多数の男女が強制労働に徴用された。

      土地登記の政策など問題もあったようだが工業化により「農業基盤」から離れるのは普通。「第二次大戦末期には、日本本土の国民徴用令が朝鮮でも適用された」ということなのだが。志願兵への言及は無し(93)。

      1945年までに、日本の労働人口全体のなかで朝鮮人が大きな割合を占めるようになったと推定されている。

      徴兵免除されてたしね。次の移住についての94を補強し、「強制労働」と移住を結びつけるような構成となっている(以上93)。

      推定では、朝鮮人全体のうち20%が郷里を追われ、11%が朝鮮の地を離れた。第二次世界大戦終戦時には朝鮮人約240万人が日本に、200万人が中国に、約20万人がソ連に居住していた。日本が第二次世界大戦に敗れ、朝鮮総督府は崩壊した。数百万人の朝鮮人は母国に戻ろうとしたが、それ以外は日本、中国、ソ連に留まった。こうした強制的な移住の遺産の一部として、特に日本と中国北部には相当数の朝鮮人少数民族として存在している。

      「郷里を追われ」。理由はさまざま。この「約240万人」*14 が、93のパラグラフと合わせて、実質七か月間の徴用令による「強制的な移住」であるかのように読める *15 。併合以来多くの密航者が摘発されていたような状況、済州島四・三事件朝鮮戦争の難民も無視。「こうした強制的な移住の遺産」は、 昭和34年時点の61万人の内245人と、外務省も2010年に国会では説明しているのだが *16 *17終戦時の数字とは直接比較できないが、北朝鮮日帝840万人拉致説なので「約240万人」なら少ないか(苦笑)*18

    • C.朝鮮半島の分断、朝鮮戦争とその後遺症

      「実績あるゲリラ戦闘員に過ぎなかった」金日成への個人崇拝について

      最高人民会議常任委員会の元委員長・黄長燁は次のように説明している。

      第88歩兵旅団に所属していた多数の朝鮮人のなかで金が選ばれた理由は彼の若さと容姿だったのではないか。だが彼の経験は、当時の中国人[朝鮮人]指導者にはとうてい太刀打ちできなかった。ロシア陸軍大尉から北朝鮮の伝説的英雄へと成り上がるためには過剰なプロパガンダが必要だった。だが当時の朝鮮は、日本の支配下における苦しい抑圧を経験したばかりだった。この状況が、過剰なプロパガンダの機会を与えたのだ。

      韓国に亡命した最高人民会議常任委員会の元委員長、黄長燁(ファン・ジャンヨプ)の「説明」を取り上げている(100)。北のプロパガンダについてはⅣ章「調査委員会の調査結果」の「教化、プロパガンダ、及びこれに関連した大衆組織の役割 」で

      北朝鮮の思想教育プログラムでは、二つの基本テーマが柱となっている。一つは最高指導者に対する極度の忠誠と献身を叩きこむこと、もう一つは日本、アメリカ合衆国、韓国に対する敵意と深い憎悪を植え付けることである。後者の目標は、非常に意図的かつ組織的な取り組みによって追求されており、明らかに、差別・敵意・暴力の煽動となる国家的憎悪の主張、戦争に向けたプロパガンダに相当するほどであり、ICCPR第20条に違反している。

      と分析しているにもかかわらず(167)、「日本の支配下における苦しい抑圧」それ自体が南北双方の政権による「過剰なプロパガンダ」であることへの「視点」が欠落している *19

      朝鮮半島からの日本の撤退は唐突だった。この空白を埋めるべく、半島全土に自治組織、あるいは人民委員会が出現した。米国はこれらの組織を積極的に弾圧したが、ソ連はこれらを中核的な統治機構へと育てていった。

      下記韓国指導部の「正当性」に関わる説明は、金日成の経歴として抗日運動には言及しているが、それ以外では南側の動向には触れていないので上記ぐらいか(96)。「北朝鮮に見られる政治構造・政治姿勢を理解するうえで参考になる」とおもうのだが。朝鮮人民共和国や呂運亨(ヨ・ウニョン)についての言及も無い。

      金日成は、韓国の指導部に正統性がないと思われていた点と、南部での反乱の発生を期待して、朝鮮半島全体の指導権を主張する賭けに出たのである。

      (102)。朝鮮戦争勃発。アチソン・ラインへの言及は無い。

    • E. 金王朝のもとでの権力基盤固め

      韓国では、二人の政治的にリベラルな大統領、すなわち1987年に選出された金大中と2002年に選出された盧武鉉が、人権問題に関するしっかりした資質をもとに、関係改善に向けて無条件関与の政策を推進した。

      民主化による人権派(?)大統領の登場というところだが、「人権問題に関するしっかりした資質をもとに(原文:had strong human rights credentials)」は必要?。つまりこの文章から窺えるのは、人権派=緊張緩和、緊張緩和=良きこと、というシンプルな見立てである(142)。

    • F.国外の動向と人権状況

      Ⅲ章最後のパラグラフ。「北朝鮮を国際社会に統合するプロセスの一環として」、朝鮮戦争の「決着」と「同様に」、北朝鮮による「あいかわらず」の「植民地支配に対する不満」も「関心を注ぐ必要がある」「問題」である、としてこの章を締めくくる(162)。
      この出来事は、北朝鮮においては朝鮮戦争がいまだに微妙な問題であることを浮き彫りにした。自国民の人権を尊重する責任ある国民国家として北朝鮮を国際社会に統合するプロセスの一環として、この紛争を決着させることが必要かもしれない。同様に、北朝鮮はあいかわらず植民地支配に対する不満を表明し続けている。こうした事項についても、やはり上記プロセスの一環として関心を注ぐ必要がある。ただしこれらの問題の解決を徐々に進めていくからといって、北朝鮮がただちに実行すべき国際法上の義務をなおざりにするべきではない。
  3. 外務省ホームページ

  4. 国連広報センター

  5. 国連人権高等弁務官ソウル事務所ホームページ英語

  6. 国連人権高等弁務官事務所ホームページ英語

    • 「 OHCHR | COlDPRK 朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会」(英語

      「朝鮮民主共和国における人権に関する国連調査委員会に関する質問と回答」(2014年2月17日)(英語(PDF))
      「総会第68回セッション 朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会のマイケル・カービー委員長による口頭報告」(2013年10月29日)(英語(Word))
      「人権理事会第24回セッション 朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会のマイケル・カービー委員長による口頭報告」(2013年9月17日)(英語(PDF))
      「朝鮮民主共和国の人権に関する国連調査委員会に関する最新の質問と回答」(2013年9月16日)(英語(PDF))。
      インフォメーション・シート「朝鮮民主主義人民共和国DPRK)の人権に関する調査委員会」(2013年8月)(日本語(PDF))

      • 「 OHCHR | 経歴」
        マイケル・ドナルド・カービー(Michael Donald Kirby)(オーストラリア)- 委員長
        マルズキ・ダルスマン(Marzuki Darusman)(インドネシア)- 北朝鮮における人権状況に関する特別報告者
        ソニア・ビセルコ(Sonja Biserko)(セルビア

        調査委員会メンバー経歴(日本語(PDF))
      • 「 OHCHR | COlDPRK 公聴会」(英語

        (東京、2013年8月29日 - 30日(日本語版))

      • 「 OHCHR | COlDPRK 朝鮮民主共和国における人権に関する国連調査委員会の報告書」(英語)- 収容所での拷問の様子のイラスト(報告書に収録)なども掲載。

    • 「プレスリリ―ス」(英語)/「声明」(英語

      • 朝鮮民主主義人民共和国:人道に対する罪が明らかに」(2014年4月2日)(英語
      • 「人権理事会は、シリア、イラン、朝鮮民主主義人民共和国およびミャンマーに関するマンデートを延長」(2014年3月28日)(英語)-「北朝鮮における人権状況に関する決議」A/HRC/RES/25/25 採決により採択(支持30、反対6、棄権11)。
      • 「理事会、朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会との双方向対話を開催」(2014年3月17日)(英語
      • 「第25回人権理事会(2014年3月17日)への朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会のマイケル・カービー委員長による声明」(2014年3月17日)(英語
      • 「ピレイ[人権高等弁務官]、「歴史的な」北朝鮮報告書に対する緊急行動を求める」(2014年2月18日)(英語
      • 朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する調査委員会に関する事務総長広報官による声明」(2014年2月18日)(英語
      • 北朝鮮:国連人権委員会、広範かつ継続的な人道に対する罪を文書化、ICC への付託強く促す」(2014年2月17日)(英語
      • 朝鮮民主主義人民共和国に関する調査委員会の報告、2月17日に一般公開」(2014年2月11日)(英語
      • 「ワシントン訪問終結:証言の分析に進み、結論の検討を開始 北朝鮮における人権に関する国連委員会、公聴会のグローバルツアー終える」(2013年11月1日)(英語
      • 「第68回総会における朝鮮民主主義人民共和国における人権状況に関する特別報告者、マルズキ・ダルスマン氏による声明」(2013年10月29日)(英語
      • 「ワシントンDCにおけるメディアイベント、2013年10月30日 - 11月1日」(2013年10月28日)(英語
      • 北朝鮮に関する国連人権捜査官、ロンドンで衝撃的な証言を聞く」(2013年10月25日)(英語
      • 「ロンドンにおけるメディアイベント、2013年10月23日 - 24日」(2013年10月21日)(英語
      • 朝鮮民主主義人民共和国に関する国連委員会、イギリスとアメリカで公聴会を開催」(2013年10月17日)(英語
      • 「「言葉にならない残虐行為」、北朝鮮における人権状況に関する国連調査による報告」(2013年9月17日)(英語
      • 朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する国連調査委員会の東京へのミッション、2013年8月28日 - 31日」(2013年8月27日)(英語
      • 北朝鮮の人権状況に関する国連委員会、ソウルでの作業を完了」(2013年8月26日)(英語
      • 北朝鮮における人権に関する国連調査、日本での聴聞を開始する」(2013年8月23日)(英語
      • 「国連のパネル、北朝鮮における人権への聴聞を開始する」(2013年8月16日)(英語
      • 北朝鮮に関する国連調査委員会、活動開始」(2013年7月5日)(英語
      • 「理事会議長、朝鮮民主主義人民共和国に関する調査委員会のメンバーを任命」(2013年5月7日)(英語
      • 「理事会、朝鮮民主主義人民共和国における人権侵害に関する調査委員会を設置」(2013年3月21日)(英語)-「北朝鮮における人権状況に関する決議」A/HRC/RES/22/13 コンセンサスにより採択。
  7. 国連公式文書システム英語

  8. ( UN Web TV より)

    北朝鮮の人権:調査委員会の公聴会からの抜粋(23分)」(日本語版)政治犯収容所などでの聞くだけで気分が悪くなる残虐行為についての証言。ここでの証言に疑義を挟むものではないが *20 、「第二次世界大戦の日本軍性的奴隷制度の被害者」の証言についても一般にどのように受け取られているか考える必要がある。東京からは、最後に横田早紀江氏。

  9. (各社報道より)

    • ロイター(2014年2月18日)

    •  AFP(2014年2月18日)

    • CNN(2014年2月18日)

    • 朝日新聞(2014年2月18日)(有料)

    • 産経ニュース

      下記以外の記事でもフォローしていたが、産経も「詳報」と銘打った上中下三回にわたる記事含めⅢ章の歴史記述には言及していない。

      (2014年2月23日)

      (2014年2月21日)

      (2014年2月20日

      (2014年2月17日)

    • 中央日報(2014年2月17日)

      ※ 記事の最後、こう来ましたか。報告書は ICTY旧ユーゴ国際刑事裁判所と ICTR/ルワンダ国際刑事裁判所を、例として挙げているのだが(パラグラフ1201)。加えて特別国際法廷への付託は「勧告」には加えられていない(承知の上か)。職人芸。
      COIは国連安保理で中国とロシアなどの拒否権行使によりICC提訴が失敗に終わる可能性も念頭に置き[…]特別裁判所への付託も合わせて勧告する予定だ。第2次世界大戦後にナチスの戦犯をほとんど死刑に処したニュルンベルク軍事裁判、日帝の侵略行為を扱った東京軍事裁判などが特別裁判所だった。
      ちなみに、「侵略行為」とは「人道に対する犯罪」ではなく「平和に対する犯罪」。
    • 東亜日報

      (2014年2月18日)

      (2013年12月4日)

    • ニューズウィーク日本版(2014年3月4日号)

    • 週刊朝日(2014年3月7日号)(AERA dot. (アエラドット) )

  10. ヒューマン・ライツ・ウォッチ※ 人権理事会による「北朝鮮における人権状況」決議の採択状況の推移(2008年 - 2012年)を掲載。

  11. 関連エントリ

    日帝840万人拉致説)

    (歴史記述)

    自由権規約委員会

掲載URL:
http://seoul.ohchr.org/EN/_layouts/15/WopiFrame.aspx?sourcedoc=/EN/Documents/Commission%20of%20Inquiry/COI_detailed_Japanese.pdf&action=default


Ⅲ.北朝鮮における人権侵害の歴史的・政治的背景

85
今日の北朝鮮における人権状況は、朝鮮の人々の歴史的体験によって形成されてきたものである。儒教に基づく社会構造と日本による植民地支配時代に被った抑圧は、今日の北朝鮮に見られる政治構造・政治姿勢を理解するうえで参考になる。朝鮮半島に押しつけられた分断、朝鮮戦争において生じた大規模な破壊、そして冷戦の影響は、孤立主義的な施行と外部勢力に対する根深い嫌悪を生じさせた。北朝鮮の統治システムの発展を見ていくと、同国における人権侵害の特有の性質と全体としての規模をよりよく理解できる。北朝鮮一党独裁国家であり、党・国家・軍を牛耳る同族王朝により支配されている。緩やかにではあるが社会主義マルクスレーニン理論に基礎を置く厳格なイデオロギー教義と、広範囲に及ぶ治安維持組織により、この体制は保たれている。

86
歴史・政治構造についての記述は、必然的に、それを記録する者の出自と視点を反映する。調査委員会はさまざまな段階で、歴史的事件に関するものも含め北朝鮮の視点を受け入れるべく、同国の関与を得ようと努力してきた。そのような関与は得られなかったものの、調査委員会は、北朝鮮における人権侵害の歴史的・政治的背景の理解に資するよう、バランスの良いアプローチを生み出し、入手しうる限りで最も信頼性の高い情報源を利用しようと試みた。

A.植民地時代以前の歴史

87
北朝鮮はよく、建国以来の特徴となっている孤立主義を指して、「隠者の王国」と呼ばれることがある。だが、今日の北朝鮮の相対的な孤立はもっぱら自ら選んだものであって、近代以前の朝鮮における過去の経験の延長ではない。朝鮮半島には新石器時代から人が住んでいたと考えられており、やがて農業生産を基礎とする定住社会が誕生し、馬、武器、軍隊を備えるに十分な余剰を生み出し、何世紀にもわたる伝説の時代に土着の様々な王国のあいだでの、そして今日の中国日本、モンゴルに相当する外部勢力との叙事詩的な戦いが何世紀にもわたって続いた。

88
近代以前の歴史を通じて、朝鮮では階級に基づくシステムが確立され、少数のエリート貴族が地主階級及び学識のある官僚の一部と結びついた、その後「両班」と呼ばれるようになる階級が、農民及び商人・労働者を含む下層階級を支配した。また奴隷制度及び強制的な年季奉公も行われていた。この階級に基づくシステムは封建制として位置づけられることもあるが、恐らく、大土地所有と結びついた官僚制と見る方が正確である。理論的には、このシステムでは厳しい官吏登用試験に合格し官僚制度における高い地位を与えられた男性にエリートとしての地位を与えるものであり、中国における高級官僚制とやや似ている。実際には、時代とともに「両班」は世襲制となり、戸籍制度を通じて、地方議会への参加権を含む永続的な特権を伴うエリートとしての地位を後の世代に継承していくようになった。

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両班」階級制度は、朝鮮社会に深く根付いている儒教的な基礎を物語っている。儒教は実質的に、厳格なヒエラルキーを遵守することが社会の調和と個人の満足にとって重要であると考える倫理・哲学の体系である。こうしたヒエラルキーを定めるのは、君臣、夫婦、親子、兄弟、朋友という5つの重要な関係である。このなかで最も重要なのは親子の関係である。実際、年長者に対する尊敬と長幼の序を重んじる社会的なヒエラルキーは、今日でも南北を問わず朝鮮文化の重要な特徴として残っている。同様に、女性の地位は、伝統的な男女差別主義による悪影響をいまだに受けている。

B.日本による植民地支配の時代(1910年~1945年)

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日本による朝鮮の植民地支配の前には、数世紀にわたって中国日本、モンゴル、満州、後にロシア、フランス、アメリカによる侵略やこれらの国との交流を通じた朝鮮と、世界との接触があった。1876年、朝鮮は日本との不平等条約に署名するが、朝鮮国内に影響を及ぼしていた外国勢力は日本には限られなかった。高宗王の宮廷では、親清派、親露派、親米派、さらには朝鮮人自身による改革派が覇を争った。朝鮮は、アジアでの勢力圏拡大を模索する各々の大国から干渉を受けた。清戦争(1894年~1895年)の結果、日本は朝鮮と中国との冊封関係を終わらせ、朝鮮を正式に独立国とした。これによって日本朝鮮半島での影響力を増大させることが可能になった。露戦争(1904年~1905年)では日本旅順港中国、大連)でロシア艦隊を壊滅させた。これを機に、セオドア・ルーズベルト米大統領の仲介によりニューハンプシャー州ポーツマス講和条約が結ばれ、朝鮮を日本保護国とすることが認められた。1910年、日本は朝鮮を植民地とすることを公式に宣言し、君主制を廃し、日本天皇に忠誠を捧げることを朝鮮の人々に求めた。

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日本は、社会・行政・経済の仕組みを含めて、さまざまな近代化改革を課した。それにもかかわらず、朝鮮人は植民地時代の体験を圧倒的にネガティブで残虐なものとして捉えている。朝鮮人は自国のなかでも民族差別的な法律の対象となった。朝鮮語を話すことを禁じられ、日本風の氏名を名乗らされた。行政の上級職はすべて日本人で占められ、日本は行政サービスにおける役割を満たすため、70万人前後の日本人を送り込んだ。朝鮮人のためというよりも、宗主国のために、輸送、通信、工業、さらには農業までもが拡大された。朝鮮半島における日本による近代化は、開発の進展/遅延が混在するという様式を特徴としている。日本が結局のところ朝鮮の発展を助けたのか否かという問題は、政治的にも、また学会においても依然として大きく見解が分かれている。

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1919年の三・一独立運動は、ソウル、ピョンヤンなど朝鮮の複数の都市で、学生をはじめとする朝鮮人による日本の支配に対する抗議行動を引き起こした。これらの非暴力デモはその後数日のうちに多くの都市・町に広がった。日本の当局は数千名の朝鮮人を逮捕し、その多くは、拷問や非人道的な拘置環境の結果として死亡した。

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日本は大規模な戦争努力の一環として、朝鮮半島の本格的な工業化を推進した。主として半島北部に、製鉄所、工場、水力発電所が建設された。朝鮮住民の多くは自らの農業基盤から引き離された。女性・児童を含む朝鮮人が、半島北部及び満州の工場や日本の炭鉱その他の企業での労働に派遣された。こうした労働者の多くは過酷な条件下で働かされ、多数の男女が強制労働に徴用された。1945年までに、日本労働人口全体のなかで朝鮮人が大きな割合を占めるようになったと推定されている。

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推定では、朝鮮人全体のうち20%が郷里を追われ、11%が朝鮮の地を離れた。第二次世界大戦終戦時には朝鮮人約240万人が日本に、200万人が中国に、約20万人がソ連に居住していた。日本第二次世界大戦に敗れ、朝鮮総督府は崩壊した。数百万人の朝鮮人は母国に戻ろうとしたが、それ以外は日本中国ソ連に留まった。こうした強制的な移住の遺産の一部として、特に日本中国北部には相当数の朝鮮人少数民族として存在している。

C.朝鮮半島の分断、朝鮮戦争とその後遺症

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第二次世界大戦終結が近づくなかで、やがて戦勝国となる諸大国のあいだで、世界各地の植民地の処理が交渉の主題になっていった。米国は全般的に漸進的な独立プロセスの確立を好んでおり、朝鮮について多国間での信託統治を示唆した。1943年、連合国はカイロ会談において、日本の敗北を予期しつつ、朝鮮を「しかるべき手続きを踏んで」独立させることで合意した。1945年、米国は朝鮮半島を北緯38度線で2つの管理区域に分割し、一方を米国の影響下に、他方をソ連の影響下に置くことを決意した。米国はこれらの合意を実現するため、2万5000名の兵力を朝鮮南部に派遣した。彼らは反感と抵抗に迎えられることが多かった。1945年8月、ソ連は陸軍第25軍を朝鮮北部に派遣し、ソ連軍民生部を開設した。

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朝鮮半島からの日本の撤退は唐突だった。この空白を埋めるべく、半島全土に自治組織、あるいは人民委員会が出現した。米国はこれらの組織を積極的に弾圧したが、ソ連はこれらを中核的な統治機構へと育てていった。ソ連平壌に到達したときには、朝鮮独立主義者のリーダーとして朝鮮北部で最も声望のあった政治家・曺晩植がすでに平安南道建国準備委員会を設立していた。朝鮮北部に派遣されたソ連軍部隊のなかには「朝鮮系ソ連兵」がいた。1860年代末に極東ロシアに移住したかなりの規模の朝鮮系少数民族の一部であるか、又はもっと新しく、抗ゲリラに対する日本の圧迫が厳しくなったことから満州を逃れてソ連に移った朝鮮民族だった。この「朝鮮系ソ連兵」の一人が、抗ゲリラの英雄である33歳の金日成であり、ソ連陸軍大尉の肩書きを持つ士官だった。

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ソ連が曺晩植を現地指導者として支えないことを決定したとき、代わりの候補となったのが金日成だった。1945年10月14日、金日成はある集会で初めて公に演説を行い、ソ連陸軍への感謝を表明した。彼はソ連のレベジェフ大将により「国民の英雄」「傑出したゲリラ指導者」と紹介された。とはいえ、金日成はこのイベントで演説を行った3人の北朝鮮人の1人にすぎなかった。最年長というわけでもなく、ソ連が設立した最初の予備政府である五道人民委員会の長は引き続き曺晩植だった。だが1945年12月、ソ連、米国、イギリスの外相がモスクワで会談し、5年間にわたり朝鮮を共同信託統治とすることに合意した。ソウルのナショナリストらはこの決定に抗議する集会を何度も開いた。同様に曺晩植も1946年1月には信託統治を支持する声明に署名することを拒んでいる。その後彼は投獄され、1950年10月に死亡した。

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1946年にはソ連軍民生部は現地政権に権限を委譲した。金日成北朝鮮臨時人民委員会の委員長とされた。朝鮮北部におけるソ連の影響力への抵抗は、南部における米国への抵抗に比べれば弱かった。1946年3月、臨時人民委員会は、金日成の署名のもとで土地改革に関する法令を公布した。日本の団体や個人、それに大地主が保有していた土地は接収され、それまで小作農だった住民に配分された。朝鮮北部における土地改革は全般的に成功を収め、体制の強化に貢献した。1946年8月、臨時人民委員会は工業部門を国有化した。形のうえでは日本人及び対協力者のみが接収の対象者となったが、実質的に、大規模工業資産すべてと中規模工業資産の大半が含まれていた。国内の文化・教育を振興する取り組みも人々には好評だった。1947年、北朝鮮は初の経済計画を開始した。

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こうした初期の段階で、上層部では派閥間の激しい権力闘争が10年にわたって続いたのが特徴である。金日成満州で彼と共に日本と戦った若いゲリラ出身者を要職に据え、自らの権力掌握にとって脅威となる者を追放することで権力基盤を固めはじめた。1946年、元ソ連警察官の方学世が社会安全部の国家政治保衛局長に任命された。これが公安警察・防諜の最初の組織である。方学世は北朝鮮公安警察創始者とされている。彼はソ連派であり、金日成自身のパルチザン派ではなかったものの、生涯にわたって金日成への忠誠を維持した。

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大方の意見では金日成は実績あるゲリラ戦闘員にすぎなかったが、彼はすぐさま、自分の経歴を美化し、個人崇拝を生み出すことによって自分の立場を高めることに着手した。これが北朝鮮の統治と、情報・意見・表現の自由に対する同国のアプローチを特徴付けるようになった。最高人民会議常任委員会の元委員長・黄長燁は次のように説明している。

第88歩兵旅団に所属していた多数の朝鮮人のなかで金が選ばれた理由は彼の若さと容姿だったのではないか。だが彼の経験は、当時の中国人[朝鮮人]指導者にはとうてい太刀打ちできなかった。ロシア陸軍大尉から北朝鮮の伝説的英雄へと成り上がるためには過剰なプロパガンダが必要だった。だが当時の朝鮮は、日本支配下における苦しい抑圧を経験したばかりだった。この状況が、過剰なプロパガンダの機会を与えたのだ。

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1946年、すべての政治グループが北朝鮮労働党に統合された。また北朝鮮軍が組織され、強化された。当初は警察・鉄道守備隊であるかのように偽装されていたが、ソ連軍による訓練・装備供給を受けていた。1948年9月に北朝鮮が建国される時点では、金日成は内閣の長(すなわち首相)としての地位を固めていた。その後、ソ連の兵力の多くが北朝鮮から撤退した。1949年に北朝鮮は徴兵制を導入し、総兵力を15万名~20万名とした。編成は、歩兵10個師団、戦車1個師団、空軍1個師団となっていた。この大規模な兵力は、T-34戦車やYak戦闘機を含むソ連製兵器を装備していた。中国内戦の終結に伴い、実戦で鍛えられた朝鮮人兵士4万5000名が帰国することにより、兵力はさらに増強された。

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1945年から1948年までのあいだに、北緯38度線は厳重に警備された国境へと変貌し、分断された半島の南北双方が再統一に向けた軍事力の行使を考慮していた。1948年にソ連・米国の軍隊がそれぞれ撤退した後は、緊張と軍事的挑発が増加した。1950年6月25日、ようやくのことでヨシフ・スターリン毛沢東の支持を取り付けた金日成朝鮮戦争を開始、韓国当局と米軍の軍事顧問の不意を突いて、38度線を越えて複数の方面から最大9万名の朝鮮人民軍部隊を送り込んだ。金日成は、韓国の指導部に正統性がないと思われていた点と、南部での反乱の発生を期待して、朝鮮半島全体の指導権を主張する賭けに出たのである。開戦当初、朝鮮人民軍は10万名に満たない韓国軍を簡単に蹴散らし、首都ソウルは3日で陥落した。

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ハリー・S・トルーマン米大統領は、北朝鮮による韓国への攻撃を、冷戦における最初の大きな試練であると解釈した。彼はただちに米軍部隊の展開を命令し、その行動に対する国連安全保障理事会の支持を求めた。安保理は当初、敵対行為の即時停止と北朝鮮軍の38度線以北への撤退を求める米国主導の決議を賛成9、反対0、棄権3で可決した。ソ連は出席せず、安保理常任理事国としての拒否権を行使しなかった。ソ連中国承認問題をめぐって、1950年1月以来安保理への出席を拒否していたのである。国連における中国議席は、中国本土で国民党軍が敗北したにもかかわらず、台湾を拠点とする中華民国の代表が引き続き保持していた。1950年6月27日、トルーマン大統領は米国空軍・海軍に韓国支援を命じた。同日採択された安保理決議第83号は、「北朝鮮軍による韓国への武力攻撃は平和の破壊」に相当すると認定した。この決議は国連加盟国に対し、「武力攻撃を撃退し、国際平和と地域の安全を回復するために必要となる支援を韓国に提供する」ことを勧告した。1950年7月7日、安保理はさらに、軍事力その他の支援を提供するすべての加盟国は、米国による統一された指揮のもとにかかる支援を行い、「北朝鮮軍に対する作戦の過程で、その裁量により、さまざまな参加国の国旗と共に国連旗を用いる」権限を与えた。1950年8月、ソ連安保理に復帰し、朝鮮戦争に関するその後の決議すべてに対して拒否権を行使した。朝鮮情勢に関する議論は、国連総会に舞台を移した。

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その後の数ヶ月、北朝鮮軍は立て続けに成功を収めた。1950年8月までに北朝鮮軍は朝鮮半島の90%を掌握した。だが1950年9月、ダグラス・マッカーサー将軍率いる米軍部隊が仁川に強襲上陸を果たすと戦況は一変した。今や国連の支援を得た韓国軍は北に進撃し、ソウルを奪回した。マッカーサー将軍は、中国側からの警告があったにもかかわらず、国連が支援する部隊を中国国境まで進撃させた。1950年11月には、国連軍に支援された韓国が半島の90%を掌握した。すると中華人民共和国が数十万名の部隊を派遣して朝鮮人民軍を支援した。彼らは国連軍・韓国軍部隊を38度線まで押し戻すことに成功した。北朝鮮は後にこの戦争について説明する際に、中国の「志願軍」が果たした決定的な役割を最小限に抑えている。とはいえ、戦争のその後の期間に軍事的な負担が重荷になったのは中国軍だった。北朝鮮は一貫して、戦時中に限らず、戦後の復興、戦後経済の維持においても外部から受けていた支援の程度を過小評価してきた。国連軍による反撃により北朝鮮軍が獲得した地域は縮小し、北部の荒廃を招いた。その後、2年に及ぶ苦しい膠着状態が続いた。この時期、北朝鮮への爆弾投下量は、第二次世界大戦中に太平洋戦域全体で用いられた量を上回った。朝鮮半島全域に及ぶ荒廃は甚大なものだった。

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朝鮮戦争は1953年、休戦により終結した。1953年7月27日、国連軍を代表してクラーク国連軍司令官、北朝鮮を代表して金日成朝鮮人民軍最高司令官が休戦協定に署名し、翌日、彭徳懐中国人民志願軍指令員(司令官)が署名した。朝鮮人は200万名以上、中国及び米国の兵員がそれぞれ約60万名、3万6000名以上が死亡した。他の国籍の死亡者は、イギリスが1000名以上、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コロンビア、エチオピア、フランス、ギリシャ、オランダ、フィリピン、タイ、トルコが数百名である。国際人道法に対する重大な違反が双方によって行われたとされている。米国の戦史家S・L・A・マーシャルは朝鮮戦争を「小規模だが今世紀最悪の戦争」と呼んだ。また米国では「忘れられた戦争」とも呼ばれている。だがこの紛争は、北朝鮮においては決して忘れられてはいない。戦争の犠牲者が金日成による「国の鍛造」物語を喧伝するために利用されているからだ。北朝鮮の公式の歴史では、依然として、この「祖国解放戦争」は米国が始めたものであり、金日成は国を護っただけでなく、米軍を破滅に追い込んだとされている。こうしたレトリックは数十年にわたり続いた。たとえば1990年代の大飢饉の際に米国から提供された食糧援助は、国民に対しては朝鮮戦争に関する賠償であると説明されたという。

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朝鮮戦争の後遺症は未解決のまま残されている。休戦協定では、戦闘停止から3ヶ月以内に政治的な会談を行うことを勧告している。1954年に開かれたジュネーブ会談には、韓国北朝鮮中国ソ連、そして国連軍に兵力を提供した17ヶ国のうち16ヶ国が出席した。2ヶ月後、これらの交渉は失敗に終わり、その後再開されていない。包括的な平和条約は存在しない。国境を挟んで双方が依然として相手による侵略・潜入を懸念している。北朝鮮においては、厳しい統治ルールとそれに伴う人権侵害を正当化するために発動される非常事態を維持するために、こうした懸念が利用されている。こうした背景のもとで、政治的な反体制派と見なされた者は、外国勢力に奉仕するスパイであるとの烙印を押される。食糧その他生存のための必須手段の不足は、敵対的な外の世界の責任であるとされる。同様に韓国も未解決の戦争に由来する不安を感じており、国民全体を対象とする徴兵制その他の安全保障措置によりそうした不安に対処している。こうした安全保障措置のなかには、特に表現の自由などの点で市民の人権に対する侵害と思えるような制約も含まれている。

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米国は1954年には国連軍から自国部隊を引き上げ、米相互防衛条約を通じて引き続き韓国への関与を続けている。同じように、国連軍に部隊を提供した他の国も、その兵力の大半又はすべてを撤収している。韓国に駐留する米軍の兵力は約2万8500名である。

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1960年代・1970年代を通じて、非武装地帯近辺では毎日のように銃撃が交わされ、約900名の兵士・民間人が死亡した。1967年には北朝鮮が特殊部隊を使って韓国の不安定化をめざした。1968年、北朝鮮特殊部隊の第124部隊31名がソウルの青瓦台に侵入して朴正煕大統領の暗殺を図ったものの失敗に終わった。だが1972年には、金日成の弟である金英柱と韓国中央情報部長の李厚洛による複数回の秘密交渉ののち、韓国北朝鮮は武力や外部勢力によらず平和的に南北統一を達成するとの共同声明を発表した。こうした展開にもかかわらず、北朝鮮韓国の民間目標を狙った多くのテロ行為を支援した。そのなかには、1983年にヤンゴンミャンマー)で発生した全斗煥大統領暗殺未遂事件(爆弾によりミャンマー市民4名を含む21名死亡)、1986年の金浦空港爆弾テロ事件(5名死亡)、1987年の大韓航空機爆破事件(115名死亡)などがある。こうした活動により、北朝鮮の国際的な孤立が深まる結果となった。

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朝鮮戦争が残した傷は深く、依然として感じられる。調査委員会は国境の双方の側に生じた苦痛を認識するものである。

D.「首領」体制の導入

[…]

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朝鮮戦争の後、金日成は、対立する派閥を続けさまに追放することで権力基盤をさらに固めることに力を注いだ。指導部内の派閥抗争に関与していたのは4つのグループである。国内派は約500名で、植民地時代を通じて地下の共産主義活動に携わっていた朝鮮人である。その多くは南から北へと移住していた。延安派は1920年代・30年代に中国に逃れた朝鮮人で、当初は上海に拠点を置き、後に共産党とともに内戦期の本拠である延安に移った。ソ連派は、生まれ又は育ちがソ連国内である朝鮮人で、約150~200名だった。金日成は他の派閥相互の対立を促しつつ、自らの抗派、つまり自分とともに満州国内で日本軍と戦った朝鮮人を支えていた。1952年12月、金日成は党中央委員会の総会で行った長い演説で、派閥を非難した。1953年、国内派によるクーデター計画が未遂に終わったとの噂が流れ、その指導者たちの逮捕につながった。南でのゲリラ活動の組織を担当していた南朝鮮労働党の指導者である国内派メンバー12名が、クーデターを企図し、合衆国のスパイを行っていたとして告発された。巧みに計画され、大々的に宣伝された裁判に基づいて、10名が死刑宣告を受け、2名が長期の懲役刑を受けた。

[…]

125
1960年代、主として中国ソ連寄りの派閥に所属していた潜在的なライバルを排除した後、金日成は積極的に中国ソ連との距離を取るようになった。1966年には中国文化大革命による混乱に陥った。文化大革命は大きな人的被害と混乱を引き起こし、これが北朝鮮にも波及する恐れがあった。また、金日成ソ連及び東欧の社会主義諸国との接触も減らすなかで、相当の規模であったこれら諸国からの経済支援も細り始めた。一方で金日成は自らに対する個人崇拝を拡張し、自力更生政策と、いわゆる「主体思想」といわれる極端なナショナリズムを確立した。金日成は四大軍事路線に基づく軍備重視の政策と合わせて、「主体思想」を推進した。

[…]

128
だが「主体」は、実効的な経済にとって適切な基盤とならないことが判明した。日本人から引き継いだ工業部門と投入集約性の高い農業は、数十年にわたり、ソ連及び中国からの寛大な支援によって維持された。1970年代半ばの韓国北朝鮮の国民1人あたりGDPはほぼ同じである。外部からの支援が途絶えると、北朝鮮には、根深い経済問題に対応するスキルも政治的意志も備わっていなかった。1970年代の短い期間、北朝鮮は国際社会から資金を借りようと試みた。だがこの国には、債務をどうやって返済するのか、調達した資金をどのように国内開発に投資するかといった計画がなかった。北朝鮮は数十億ドルの債務不履行に陥り、それ以上の借入は不可能となった。1990年代の飢饉以前にも、多年にわたり指導部が行ってきた選択のせいで深刻な食糧不足が生じたことはあった。繰り返される食糧不足の様式は、すでに1945~46年、1954~55年、1970~73年には報告されている。北朝鮮指導部にとっては、体系的な経済開発や住民の食糧確保に対する配慮よりも政治体制と指導部の生き残りのほうが優先課題であったように思われる。

E. 金王朝のもとでの権力基盤固め

[…]

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北朝鮮は常に、農業資材を含めてソ連中国からの支援に大きく依存してきた。1970年代・1980年代を通じて、北朝鮮ソ連中国に対し、返済の意志も能力もないままに相当の額の債務を重ねてきた。1990年代半ば、ソ連の崩壊と時機を同じくして、隣国に対する中国の忍耐も切れてしまった。

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1976年に毛沢東が死去した後、鄧小平は中国において前例のない改革を推進し、数億人を貧困から救い出した。またこの過程で中国日本との関係を構築した。1989年にはソ対立が解消された。中国が1992年に韓国との関係を正常化したことは北朝鮮を動揺させた。1994年に金日成が死去したことも、北朝鮮中国の関係に緊張をもたらした。実のところ、1990年代の飢饉の直接の原因の一つは、中国との貿易水準の変化だった。北朝鮮ソ連との二国間貿易が1990年の25億6000万ドルから1994年には140[1億4000]万ドルと10分の1以下に減少した後、北朝鮮中国に支援を頼るようになった。だが、北朝鮮中国の二国間貿易は、1993年の9億米ドルから1995年には5億5000万ドルへと減少し、食料輸出は1993年から1994年にかけて半減した。1995年7月・8月に季節的な豪雨が訪れ、土壌侵食と河川の閉塞が重なったことによる洪水で農作物が壊滅し、飢餓の時期がもたらされた。この時期は大飢饉と見なされており、北朝鮮では「苦難の行軍」と呼ばれる。1996年から1999年にかけて、45万人から200万人の人々が餓死したと推測されている。

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この人災とも言える飢饉が招いた予期せぬ結果の一つが、非公式市場が広い範囲で出現したことである。飢饉から10年後には、北朝鮮世帯の総収入のうち非公式経済が占める比率は78%に達したと推定されている。配給制度がもはや最小限の量の食糧さえ提供できなくなった以上、当局はかつてのような水準での統制を行うことができなくなった。社会統制が崩れたことにより、国外からの情報の遮断にも綻びが生じた。同時に、多くの人々が北朝鮮からの逃亡を試みたことで移動の自由に対する統制も緩み、また中国からの交易品の獲得をめざす人々も現れた。中国とのあいだを行き来する人々が増えるなかで、彼らは中国の相対的な豊かさを目の当たりにし、韓国についても、政府の公式のプロパガンダとは大幅に違う情報を入手した。指導部は市場を統制し移動の自由を制限しようと多くの対策を講じたが、こうした措置はさまざまなレベルでの抵抗を招いた。

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韓国では、二人の政治的にリベラルな大統領、すなわち1987年に選出された金大中と2002年に選出された盧武鉉が、人権問題に関するしっかりした資質をもとに、関係改善に向けて無条件関与の政策を推進した。こうした政策が目標としていたのは、北朝鮮の急激な体制崩壊や暴力的な対決を引き起こすよりも、再統一に向けて段階的に前進していくことだった。金大中大統領の「太陽政策」は2000年、金正日との歴史的な南北首脳会談として結実した。盧武鉉大統領は「平和繁栄政策」の名のもとに実質的に太陽政策を継承した。太陽政策によって、韓国から北朝鮮に向けて30億米ドルの支援が提供されたと推定されている。また韓国は、北朝鮮に外貨獲得と国際市場参加の機会を与えるための共同事業を行った。協力事業の要となったのが開城工業団地である。

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2002年、金正日は経済改革の実施を試みた。「7.1措置」(発表された2002年7月1日の日付にちなむ)には、市場価格をより正確に反映させるための消費者価格引き上げ、公定賃金引き上げ、独立性の向上に向けた国営企業の経営方針変更、一般市場の正式な設立などが含まれていた。こうした施策を国内レベルで進める一方で、金正日は国内経済の欠陥を補うために国際的な支援を求め続けたが、その条件は人道機関としてはなかなか容認しがたいものだった。日本北朝鮮との関係正常化協議は1990年代に始まり、2002年9月にはついに小泉純一郎日本国総理大臣と金正日国防委員会委員長とのあいだで日朝首脳会談が行われた。

[…]

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一方、金正日による2002年の経済改革の取り組みは軍からの抵抗を受け、最終的に金正日は譲歩した。2005年、北朝鮮配給制度の再生を試み、農家から穀物を徴発した。一方で政府は、国境を越えて中国に移動することをこれまでよりも困難にした。それにもかかわらず、2006年までにはコメ、トウモロコシの禁輸措置は実質的に終了している。

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2006年7月、北朝鮮は長距離ミサイル数発を発射した。これはさまざまな国による制裁発動を招き、国際連合安全保障理事会は複数のミサイル発射を非難し、北朝鮮に対しすべての弾道ミサイル関連活動の停止を求める決議を採択した。数ヶ月後、北朝鮮は初の核実験を行ったと発表した。中国北朝鮮を批判する強い調子の声明を発表し、核兵器及び弾道兵器開発を防ぐことを目的として北朝鮮に制裁を課す旨の安保理決議を初めて支持した。とはいえ、中国は依然として概ね北朝鮮指導部を支持しており、中国による北朝鮮批判はじきにトーンダウンした。

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2007年の韓国大統領選挙で当選した李明博は、太陽政策によるアプローチを覆し、相互主義と非核化に重点を置いた。こうした基調の変化を不満とした北朝鮮李明博に対する個人攻撃を行い、軍事的緊張をエスカレートさせた。2007年以来、韓国北朝鮮間では閣僚級会合が一度も開かれていない。2008年、金正日脳卒中に倒れた。2009年、北朝鮮指導部は民心掌握とともに、大胆な通貨改革を実施することによる市場経済化のプロセスを試みた。北朝鮮はこれまでにも1959年、1979年、1992年と通貨改革を試みていたが、2009年の通貨改革は、大幅なインフレと市場の一時的な機能停止を引き起こしたことにより、幅広い失望と混乱を招いて失敗に終わった。この改革により、通貨の切り下げを伴う新紙幣が導入されたが、国家公務員の給料は実質的に上昇し、大幅なインフレをもたらした。新紙幣への切り替えに上限が設けられ、その後の急激な物価上昇もあって、多くの市民にとっては貯蓄の価値が失われた。

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2009年、北朝鮮は複数回のミサイル発射試験を行い、六者会合から撤退し、寧辺核施設から国際的な監視員全員を追放して8000本の燃料棒再処理を行い、二回目の核実験を行った。安保理は制裁を強化する決議第1874号を可決した。北朝鮮は合衆国と韓国が宣戦を布告したとして非難し、北朝鮮はもはや1953年の休戦協定に拘束されないと宣言するに至った。

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脳卒中の発作後、金正日はこれまでよりもはっきりと後継問題に関心を注ぎ始めた。2001年までは長男の金正男が後継候補と目されていた。この年、金正男は複数の家族とともに、ドミニカ国籍の偽㐀旅券を使って日本入国を試みている。2009年初めに、北朝鮮公式の宣伝機関が、「新星将軍」への言及を始めた。金正日の後継候補に金正恩が選ばれたという公式な証拠が現れるのは、ようやく2010年になってからである。2010年3月、韓国海軍の哨戒艦天安が魚雷攻撃を受けて沈没し、乗員46名が死亡した。2010年9月、1980年の党大会以来初となる朝鮮労働党の会議において、金正日の妹である金敬姫金正恩が、いずれも軍務の経験が無いにもかかわらず大将に昇進した。同時に、金正恩は中央軍事委員会の副委員長に任命された。2010年11月、北朝鮮延坪島を砲撃し、韓国人4名が死亡した。2011年12月19日、政府は金正日が2日前に死去したことを発表した。金王朝はただちに金日成一族の第三世代へと引き継がれた。この権力移行は、公式の民主的プロセスも北朝鮮市民の実質的な関与もないままに行われたものと思われる。

[…]

156
その一方で、金正恩が権力を継承して以来、国境における弾圧が行われている。北朝鮮を逃れて韓国に到達する人の数は、2012年から2013年にかけて大幅に減少した。調査委員会では、北朝鮮に残った家族に対し脱者の帰国を促すよう脅迫するなど、脱者に対する脅迫や抑圧に関する報告を入手している。実際に、韓国から北朝鮮に帰国した朝鮮人の多くが国営テレビに登場し、国を離れたことに対する後悔を表明し、南での生活に対する批判を口にしている。この他に報告されている抑圧的な措置としては、エリート家庭による私費での海外留学に対して金正恩が新たな制限を設けた、などがある。

[…]

F.国外の動向と人権状況

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以上のような北朝鮮国内の状況の検証は北朝鮮の変化とその人権状況を説明する一助にはなるが、この国家の性格を形作ってきた特定の影響要因を理解するには、国外の環境を検証することもやはり有益である。第二次世界大戦の終焉によって、国家としての独立が多くの植民地の人々の第一の希望となり、朝鮮民族も例外ではなかった。その一方で、新たな世界秩序によって、合衆国及びその同盟国とソ連及びその同盟国とのあいだの対立関係が生じた。国際関係において冷戦は大きな役割を演じ、北朝鮮に大きな影響を与えた。地域的な力学も同じように重要である。

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中国は繰り返し、朝鮮半島の非核化の希望を表明しており、北朝鮮の安定が中国にとって主要な優先事項であるように思われる。それにもかかわらず、北朝鮮から逃亡しようとする北朝鮮国民の過半数は国境を越えて中国に入り、陸路東南アジアに到達しようとしている。こうして、北朝鮮における人権侵害が中国に直接的な影響を与えるなかで、中国がこのような脱北者にどう対処するのか、中国による国際人権法の遵守といった問題が生じている。

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2002年の日朝首脳会談を受けて発表された日朝平壌宣言は、「日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなる」と指摘している。だがそのプロセスは、北朝鮮日本人拉致を認めた後のフォローアップを怠ったために頓挫した。拉致問題は引き続き日本国民の強い関心を呼んでいるし、北朝鮮が実験を行い、開発を続けている核兵器弾道ミサイルによる安全保障上の脅威も同様である。

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韓国北朝鮮とも、朝鮮半島の統一を目標にすると表明している。韓国の国家保安法は、「反国家的」団体に対する自発的な支援、奨励・鼓舞を行った者は7年以下の懲役に処せられると定めている。北朝鮮への無許可の旅行は依然として禁止されている。近年、韓国北朝鮮から逃亡した市民に対する支援の取り組みを強化している。北朝鮮はこれに対して、脱者または脱を試みた北朝鮮市民は、拉致されたのであると反論している。2007年以来、韓国北朝鮮のあいだでは閣僚級協議がまったく行われていない。朴槿恵大統領は、北朝鮮との関係に対する韓国のアプローチにおける新たな枠組みを発表し、「信頼政策」という言葉を用いて、厳しい姿勢とともに、交渉が開始された場合に柔軟性を与えるような、漸進的な信頼構築プロセスに言及した。2013年6月12日にソウルで予定されていた内閣レベルでの協議は、代表団の構成について双方が合意できなかったため中止された。中止された閣僚級協議の他には、新政権が進めた対北朝鮮交渉によって、さまざまな結果が生じている。開城工業団地は長期にわたる協議の末に2013年9月に操業再開となったが、国民の祝日である「秋夕」の際の離散家族再会については、南北国境を隔てて長年にわたり分断され、大半は高齢化している家族のあいだで希望が高まっていたものの、北朝鮮側から突然中止された。金正恩が2014年年頭の演説において、韓国に対し「双方にとって利益のない誹謗中傷をやめる。」ことを呼びかけ、「南北朝間の関係を促進することを選択する者とは、その者の過去にかかわらず、手を携えている。」ことを表明したことを受けて、朴大統領は旧正月の一時的な離散家族再会を再開することを提案した。この提案は北朝鮮により拒絶された。

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調査委員会は、朝鮮戦争がまだ終結していないことを想起する。2013年、かつて朝鮮戦争に従軍した退役軍人である85歳の米国市民メリル・ニューマン氏が北朝鮮で逮捕され、1ヶ月間拘留された。この出来事は、北朝鮮においては朝鮮戦争がいまだに微妙な問題であることを浮き彫りにした。自国民の人権を尊重する責任ある国民国家として北朝鮮を国際社会に統合するプロセスの一環として、この紛争を決着させることが必要かもしれない。同様に、北朝鮮はあいかわらず植民地支配に対する不満を表明し続けている。こうした事項についても、やはり上記プロセスの一環として関心を注ぐ必要がある。ただしこれらの問題の解決を徐々に進めていくからといって、北朝鮮がただちに実行すべき国際法上の義務をなおざりにするべきではない。


2018年2月15日

*1:本調査報告書は、2016年にクラウドファンディングを用いた日本語への翻訳、出版が行なわれている。

*2:ソウル事務所からのリンク先は MS Office の Word App で PDF ファイルを表示しているようだが、“FIND” は日本語テキストの検索が引っ掛からない。PDF のエンコードのもんだいかダウンロードして Acrobat Reader で開いても同様で、テキストをコピペすると文字化けした。いちどダウンロードした PDF ファイルを Chrome で開くと検索やコピペが可能だったが、A/HRC/25/63 の方はこれでもダメ。

*3:そもそも外務省自身が連合国史観=東京裁判史観という。なお、歴史観と法理は別だが、報告書の「人道に対する犯罪」の定義に関する説明で東京裁判への言及がある(パラグラフ1026 )。

*4:パラグラフ94で北朝鮮への帰還事業に関わる朝日新聞の報道を取り上げたが、「視点」というより、いみじくも当時の朝日の言うとおり「中傷」という方がそぐわしい。

*5:北朝鮮民主共和国の人権に関する国連調査委員会に関する最新の質問と回答」(英語)、調査委員会サイトへのリンク参照。

*6:情報の “CALL FOR SUBMISSIONS(提出要請)” を行なっている。調査委員会サイト参照。

*7:この資料は調査委員会サイトの “DOCUMENTATION” と “PRESS RELEASES” 両方に掲載されているが、前者では2013年9月16日付、後者では8月16日付となっている。前述のとおり理事会での報告が9月17日なので、後者、つまり委員会の訪日後が正しいように思われる。また、朝日の慰安婦に関する訂正、謝罪の前の年のことで、この時点では日本政府は国連の機関等において個々の事実関係に関する反論は行なっていない。

*8:なお、カービー委員長(オーストラリア)は、報告書公表後の人権理事会での声明で、北朝鮮ナチス・ドイツアパルトヘイトクメール・ルージュを引き合いに出して非難している。中央日報は悔しがっていたかもしれない(苦笑)( 6. 国連人権高等弁務官事務所ホームページの「プレスリリース」2014年3月17日(英語)および 9.(各社報道より)の中央日報の記事、ならびに、東亜日報の2013年12月4日の記事も参照)。2017年には、特別報告者も務めていたダルスマン委員とともに旭日重光章を受章した。

*9:満洲は中国の一部ではないと読める。細かいこと言えば現在「中国」と呼ばれる地域の王朝には満洲、モンゴル以外の異民族による支配もあったが。

*10:連合国史観では北朝鮮ではなく日本の歴史についての記述であったとしても、この「視点」は落とされかねない。

*11:朝鮮が外交権を失ったのは第二次日韓協約であり、桂・タフト協定によりアメリカに日本の指導的地位を「認められた」訳だが、こんなところか。

*12:ヒアリング」に対応した日本側の「有識者NGOなど」( 3. 外務省ホームページ「報道発表」)が積極的に吹き込んだ可能性もある。

*13:工業化についてはパラグラフ98や128でも当然の前提として言及。これに関しては韓国などの日帝にすべてを奪われたとする「視点」は退けられているというところ。11. 関連エントリ 2017-08-25 なども参照。

*14:けっこう良く見る数字。おおもとの出典は朝連結成時の宣言?。

*15:日韓基本条約の際に韓国側が準備していた徴用者の(文字どおり名前のみの)名簿(『倭政時被徴用者名簿』、1957 - 1958)ですら28万人だから無理がある。北朝鮮側の人数が入っていないとしても同数で56万人、徴用者が家族をひとり平均4.3人連れて来れば合う理屈。もっとも北朝鮮が国連などで主張する数字は後述のとおりなのだが、さすがにこれには言及していない。このあたりの線引き(曰く「バランスの良いアプローチ」(既出パラグラフ86))をどう行なったのかは興味深いところ。なお韓国側の主張には下記の数字もあった(103万人説)。

なお、この数字をアジア女性基金は、マクドゥーガル報告書が取り上げた慰安婦20万人説を否定する文脈で援用している。

*16:韓国による、日本からの北朝鮮帰還事業への、当時の朝日新聞報ずるところの「中傷」に対する外務省の反論。このころは「中傷」に対してきちんと反論を行なっていた。ただし、こんにちの朝日では考えられない報道と見るのは早い。「地上の楽園」押しをやっていたに過ぎない。

*17:とは言え、移住者のほとんどが本土の日本人同様(あるいはそれ以上の好待遇?)の戦時徴用ですらなく、自由意思で移住した、としたところで議論は終わらない。それまで強制徴用によって移住させられたと主張しておきながら、「日帝強占」によって移住を余儀なくされたのだと話をすり替えるだろう。慰安婦問題によく似た展開である。

*18:日帝が大陸侵略戦争で消耗される兵力と労働力を充当するために強制徴発した朝鮮の青壮年の数」。この内「強制徴用者の数」が778万4,839人としている(朝鮮新報/2003年2月4日)。11. 関連エントリ 2017-09-19 参照。

*19:報告は二十条1項に言及しているが、南北ともに2項に抵触するだろう。この条約に基づき設置された国連の条約機関(自由権規約委員会)が「憎悪の唱道」を後押ししたりしているのだが(苦笑)。11. 関連エントリ 2017-07-17 なども参照。

第二十条
1 戦争のためのいかなる宣伝も、法律で禁止する。

2 差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。

*20:委員会は、「一般の公衆が動画記録及び文字起こしデータを研究し、証人による証言の信頼性及び一貫性について自らの意見を形成することを推奨している」。(歴史記述についても同様の姿勢を委員会には望みたいところだがそれはともかく)北朝鮮側にも「質問及び意見表明を行なうよう招請したが、回答は得られ」ず、代わりに「朝鮮中央通信社は調査委員会が中傷を行っているとして公式に批判し、証人による証言は捏㐀であると主張した」(パラグラフ33)。のちに北朝鮮は、報告書の勧告どおり総会において安保理ICC への付託を促す決議が採択される情勢になると、報告書証言は捏造とするキャンペーンを展開する。

※ カービー氏「私は全ページを読んだ数少ない人間の1人に違いない」(笑)。

ハンギョレ新聞/2014年11月13日)

※ 2014年12月19日、総会本会議は決議案を採択。

※(自伝の共著者から連絡があった模様だが)すっぱ抜いたのは炎上でお馴染み、ワシントン・ポストのアンナ・ファイフィールド東京支局長(下記記事リンク先ワシントン・ポストの記事参照)。北朝鮮人権委員会のグレッグ・スカラトウ氏が、証言に対する信頼性に疑念を抱かせるような報道に強く反論している(ハフィントンポスト/2015年1月19日)。